日記ログ
back  第二十一章〜
  ≪第一章≫

 柔らかな日差しと穏やかな風によって、男は目を覚ましました。
 まだぼんやりとした意識の中、心地よい目覚めの感覚を楽しんでいました。
 しかし、それもつかの間のこと。
 意識がはっきりとしていく中で、男は背中に違和感を覚えたのです。ごつごつとした感触から、そこにあるのがベッドではないことは明白であります。
 男が起き上がって感触の正体を確かめますと、そこには大小様々な瓦礫がありました。改めて頭上を見ますと、青空が覗いております。きっとこれらは天井が崩れて出来た瓦礫なのでしょう。
 立ち上がろうと手をついた拍子に、小さな瓦礫がからんからん、と転がっていきます。
 その様子を見ながら、果たして何故このような場所で眠っていたのか、男は思い出そうといたしました。しかし、一向に思い出せる気配がありません。それどころか、ここで目覚める以前の記憶も、自分の名前さえも思い出すことが出来ませんでした。
 男は困り果てて、それでも何か思い出せないかと必死で考えました。
 すると、記憶はなく、一つの衝動が心に浮かんでまいりました。
「本……」
 本を読みたい、男がそれは意識すると、その衝動はどんどんと大きくなりいても立ってもいられなくなりました。
 男はその欲求を満たすため、本を探すことにしましたが、それはすぐに成し遂げられました。
 この廃墟、以前は図書館であったのでしょう。辺りを見渡すと、本棚が倒れて地面に散乱している本が、倒れなかった本棚に整然と納まっている本が、数え切れないほどありました。
「嗚呼、私はなんて幸運なんだろう」
 己の幸運に感謝をしてから、男は早速手近な本棚の本から読んでいくことにしました。
 そうして本を読み耽っていく内に、記憶がないことなど、すっかり気にならなくなっておりました。


 それからどれほどの時が経ったでしょう。
 歩くのに邪魔な瓦礫や本に被さっている瓦礫を取り除き、本についた埃を払い、雨に晒されそうな本を安全な場所に移し、あとはひたすら本を読んで過ごしました。
 本を読むため廃墟の中を歩き回っている内に、この廃墟が以前は立派な図書館だったかを窺い知ることが出来ました。建物は広く、また納められた本の数は数え切れないほどでありました。
 廃墟の一角が完全に崩壊しておりまして、そこに収められていたでしょう本を読むことが叶わなかったのは少々残念ではありましたが、それでも十分すぎるほどの数の本がありました。
 けれども、いかに立派な図書館だったと致しましても、数え切れないほどの本がありましても、本が無限にあるわけではございません。
 毎日毎日本を読むうちに、ついに男は廃墟にある本を全て読み尽くしてしまいました。
 歴史書、魔術書、学術書、文学、児童書、図鑑、果ては辞典まで、ありとあらゆる本を読みました。
 中でも、夜を照らします3つの月の内の1つ、白銀色の月にあるという楽園を目指して旅をするといった内容の幻想小説を特別気に入りまして、何度となく読み返しました。
 しかし、男の読書に対する欲求は収まる気配はありません。まだ読み足りなかったのです。
 男は、記憶がないと分かった時よりも困り果ててしまいました。
 けれど、困ってばかりいても欲求が満たされることはありません。
 男はまず、廃墟の外にまだ見ぬ本を求めることを考えました。しかし、廃墟の窓から見える景色にそれを望むのは酷であることは重々承知しておりました。
 かつては立派な町が広がっていたのでしょうが、今は見るも無残と表現するのがもっとも適切でしょう。建物のいくらかは形を保ってはいますが、多くは完全に崩れ落ちていました。その有様は、今いる廃墟がもっとも良い状態なのだと、思い知らされることになるほどでございました。
 このような状態で、未だ読んだことのない本を探すのは、ただただ徒労に終わるだけでしょう。
 では、果たしてどうするのが良いのでしょうか。
 男が考えておりますと、数冊の本が目に飛び込んでまいりました。それらは、表紙にも中身にも何も書かれておりません。真白い本でございます。
 男はその内の一冊を手に取り、しばし見つめた後、一つの案を閃きました。
 読んだことのない本がないのならば、新しく生み出せば良いのだ、と。
 ただし、男が自身の手によって書くことはありません。それでは"読んだことのない"本にはなりえません。
 普通ならば再び悩むところでありますが、男は良い解決策を知っておりました。
 この廃墟で読みました魔術書の1つに、独りでに文章を記す魔術がございました。元々は話し合い等の記録用の魔術でありますが、これを用いれば全く読んだことのない本を生み出すことも可能でしょう。
 男は早速本に術をかけようと致しましたが、それは途中で止めることとなりました。
 日はとうに沈んでいて、空には明るい色がもうわずかしか残っていません。今術をかけたとしても、術が成功したかどうかを確かめることは困難でありましょう。
 ですので、男は術をかけるのを再び日が昇るのを待つことにして、今は明日に備えて眠ることに致しました。
 真白い本を傍らに置き、目を閉じた男は、どのような本にしようかと考え出しました。
 やはり、気に入りの本のように、どこかを目指して旅をするものが良いでしょうか。自分が旅をして、それを記録するのです。これならば、魔術の応用も簡単ですし、それに旅をすれば、まだ見ぬ本に出会うこともきっとありましょう。
 新しい本を記しながら、読んだことのない本を求める。男にはとても名案に思えました。
 男は自分の案に満足したのち、すっと夢の世界へと旅立って行きました。


 明くる朝、男は不可思議な現象に見舞われ、首を傾げることとなりました。
 眠る前には確かにあった廃墟は消え失せ、巨大な城と、それを囲うようにどこまでも続く森が広がっておりました。
 何故このような場所にいるのかと、まさか再び考えることになるとは思いもしませんでした。
 しかし今度は、一度目の時のように思い悩むことはありませんでした。
 男は、それが何日分かは分かりませんが、この場所にやって来るまでの記憶をなくしたのだと思ったのです。既に一度起こった現象なのです、それが再び起こったとしても不思議はないでしょう。そう結論付けたのです。
 思考を切り替えまして、男は傍らに置かれた本を拾い上げました。本を開くと、中は真白いのままでございます。きっと術を失敗したのでしょう。
 ですので、男は今一度術を試みます。魔術書の内容をしっかりと思い出し、精神を集中させ、いくつかの文言を唱えます。
 すると、本の全てのページが薄ぼんやりと光を放つようになりました。本を開きますと、男が見ている前で勝手に文章が綴られていきます。どうやら術は成功したようです。
 男はそれを見ると満足げに本を閉じて立ち上がりました。
 自分の旅を記した本を作るのですから、これから旅をしなければなりません。
 さし当たって、男はこの先に見える城を目指すことと致しました。
 どこへ行くにしても、まずは自分がどこにいるのかを把握しなければなりませんし、それはおそらく城へ行くことで成し遂げられるでしょう。
 そうして男は、最初の目的地を目指して歩き出したのでございます。

  ≪第二章≫

 男は遠くに見えた城を目指して、森の中を歩いておりました。
 よくよく考えますと、記憶を失っている男は目覚めてからはずっと廃墟にいたのですから、こうして森の中を歩くというのはとても新鮮なことであります。
 特に急ぐ必要もありませんでしたので、男はゆっくりと森を楽しみました。爽やかな緑の匂い、柔らかな日差しが心に穏やかさをもたらします。木の根元を目を向けますと、赤い花が一輪、隠れるようにひっそりと咲いておりました。
「おや、こんな所に……何の花かな?」
 植物図鑑にこの花の記述があったか考えていますと、視界の端で何かが動いたような気がしました。顔を上げてそちらを見ますと、モグラに似た動物が佇んでおりました。
 モグラに似た、と言いますのは、おそらく耳があるでしょう場所にいくつか石がついているのです。装飾品と言うよりは、角のように生えているように見えます。
 その動物はこちらを、正確に言いますと、男の足元に咲く花をじいっと見つめております。
「この花が欲しいのかな?」
 男がそう呟きますと、動物がこくりと頷いたように見えました。
 こちらの言葉を理解したのでしょうか、いやまさか、などと考えながらも、男は花を摘み取り、動物へと差し出しました。
 すると動物は、ちょこちょこと男に近づいてきまして、差し出された赤い花を受け取りました。
「……ありが、と」
 そして、動物は感謝の言葉を述べたのです。
 これには男も心底驚きました。
 例えば、長く連れ添った動物であれば、人の言葉を理解するものもいます。しかしながら、自ら言葉を操る動物など、少なくともあの廃墟で読んだ本の中には書かれておりませんでした。
 男が呆然としておりましたら、動物に渡しました赤い花が、薄く光を放ちながら消えてしまいました。
「おや、花が……?」
 それによっていささか我に返りました男が言葉を零します。
 すると、動物がたどたどしいながらも説明を始めたのでございます。
「ネクター、ボクたち、エンブリオの、ごはん」
 ふむふむ、と男は話を聞いております。
 ネクター、と言うのは、おそらく赤い花の名前なのでしょう。ボクたち、は目の前の動物の他にも同じような動物がいるのでしょうか。ごはん、と言うのは言葉通りでしょう。しかしながら、その摂取方法は普通とは異なるようでございます。
「エンブリオ、と言うのが君たちのことかな?」
 男が確認のために問いかけますと、ノームが頷きました。
「ボク、エンブリオの、ノーム」
「ノームと言うんだね。私は……」
 名乗られたからには名乗り返さねばならない、と思った男ですが、ここで一つ困ったことを思い出しました。
 記憶のない男は、当然自分の名前も分かりません。名乗る名を持ち合わせていなかったのです。
 とはいえ、このまま名乗らないと言うのは、あまり釈然と致しません。
 ですから男は、今この場で仮の名を考えようと思い、何か適当な名前がないかと思考を巡らせました。けれど、様々な名前が頭に浮かぶのですが、どれもこれもしっくりくるものはありません。
 何も人名にこだわる必要はないと思いましたところで、ようやくしっくりくるものを思いつきました。それは仮の名とするにはいささか不適切でありましたが、男は気に留めることなく、それを名乗りました。
「私は≪蒼玉望むエルイテの庭≫と言うんだ」
「……名前、ふしぎ」
 これは男の気に入りの本の表題をそのまま拝借しているものなのですから、ノームが不思議という感想を抱くのは至極真っ当なことでしょう。
「ああ、実は私は記憶をなくしていてね、本当の名前が分からないんだ。今名乗ったものも本の表題から借りたものでね。呼びにくいだろうから、好きに呼んでくれて構わないよ」
 男がそう言いますと、ノームはしばし考えるような仕草をしたのち、呼び方を決めたのでしょう、男をまっすぐ見上げます。
「分かった、エルイテ」
「しかし、世界は広いものだね。本には載っていない、喋る動物がいるとはね」
 それが男の読んだ本には載っていなかっただけなのか、あるいは人類が未だ発見していなかったのかは定かではありませんが、いずれにしても、知らないことを知る、と言うのは楽しいものでございます。
 しかしノームは、男の言葉に首を傾げます。
「? メルンテーゼでは、ボクたち、普通」
「メルンテーゼ?」
 今度は男が、ノームの言葉に首を傾げます。メルンテーゼとは、また知らない単語であります。
「メルンテーゼって何のことかな?」
 男が聞きますとノームは答えてくれますが、答えながらも怪訝そうな様子が変わることはありません。
「この、世界の、こと。ここは、元素の世界、メルンテーゼ」
「元素の世界、メルンテーゼ……うーん、どの本にもそんな記述はなかったはずだけど」
 ノームの言葉に、やはり男は首を傾げるばかりです。もしも、男の住む世界がそのように呼称されていたならば、あの廃墟で本を読んでいる内に何度となく見かけることとなったでしょう。
 男が悩んでいますと、ノームの方が先に何か分かったようで、一転してぱっと明るい雰囲気になりました。
「分かった。エルイテ、他の世界から、来た人」
「えっ?」
「メルンテーゼは、分割世界の、一つ。メルンテーゼ、以外にも、世界、たくさん」
 ノームはきちんと説明できたとばかりに胸を張っておりますが、男の疑問は膨れ上がるばかりでございます。
「君の言う通り、なのかな……?」
 ここが男の生まれ育った世界ではなく、全く別の世界である、と言うのは、そのまま信じるにはいささか難しいことであります。
 ノームが嘘をついているとは全く思えませんが、他にも何か、ここが異世界である確証を得る方法がほしい、と考えたところで、男は一つ思い出しました。
 男は城を目指して歩いている最中でありました。もしかすると、あの城に何か確証を得る術があるやも知れません。
 また、急ぐ理由は特にありませんが、あまりのんびりしていては日が暮れてしまいます。可能な距離ならば、やはり日が暮れる前に辿り着きたいところです。
「おっと、私はそろそろ行かないと」
 男が立ち上がろうとしますと、ノームは両手をわたわたと動かしてそれを制止させました。
「ボク、一緒に、行く……!」
「おや……では、一緒に行こうか」
 ノームの思わぬ申し出を、男は特に悩むこともなく、素直に受け入れることと致しました。
「道中、この世界のことを教えてもらえると、とても助かるよ」
「うん……!」
 ノームは一つ力強く返事をしますと、男の手のひらの飛び乗りました。
 こうして、思わぬところで旅の道連れを得た男は、再び城を目指して歩き出したのでございます。


 道中、男はノームからこの世界のことを教わりました。
 この世界には王がいること、最近王が代替わりしたこと、新しい王がネクターを独占し始めたこと、ネクターはエンブリオとの契約に必要不可欠なため、エンブリオを生活の軸としている人々はほとほと困り果て、ついには他の世界にも救援を求め、一揆を始めたこと。
「エンブリオと契約、ということはもしかして……」
 と、男がノームに聞こうとしたところで、それは沢山の人々の声によって止めることとなりました。
 顔をノームから正面に向けますと、歩き始める前は遠くにあった城がすぐ目の前にあり、また城の前には多くの人々が集まっておりました。
「これが、一揆のために集まった人々、ということかな」
 男は少し離れた場所でそれを眺めていたのですが、赤毛を三つ編みにした少女・ルリアンナに、一揆の参加者と勘違いをされてしまいました。
 自分はそうではない、と否定する間もなく、かなり疲れ果てた隻眼の男・ラルフによって腕試しをされることになってしまいました。
 しかし困ったことに、男は戦う術を持っていませんでした。
 そういった本はあの廃墟にも当然ありましたので、全て読破済みでありましたが、読んで理解するのと実践するのとでは大違いであること、男は重々理解しておりました。
「さて、どうしたものかな」
 武器の代わりに扱いやすそうな棒を構えては見たものの、目の前にいる屈強そうなラルフに立ち向かえる気が致しません。
 すると、肩に乗っていましたノームがぴょんと飛び降りて、そして意外な主張をし始めたのです。
「ボク、戦う、できる……!」
「えっ?」
 とてもそうには見えませんが、ノームはやる気と自信に満ちています。ここは、ノームの言葉を信じて、力を借りるのが賢明かも知れません。
「それじゃあノーム、よろしく頼むよ」
 かくして、ノームの協力を得てラルフの腕試しに挑み、結果見事にラルフを打ち負かすことに成功したのであります。


 ラルフとの腕試しを終えた後、男はルリアンナからこの周辺の地図を貰うことができました。
 地図を広げると、そこに記されているのは見たことのない地形、覚えのない町や城の名前ばかりでありました。やはりここは、男の生まれ育った世界ではないようです。
 この世界が異世界であることの確証は得ましたが、ここでまた一つ新たな疑問が浮かび上がってまいりました。
 男は一体、どのようにして世界を越えたのでしょう。
 方法としてはおそらく魔術を用いてなのでしょうが、あいにく男はそのような魔術を知りません。世界を越える魔術自体は存在している可能性がありますが、それでもしかし、知らない魔術を使うことは出来ません。
「その答えも、欠落している記憶の中にあるのかな?」
 男が眉をしかめていますと、ノームが不安そうに男を見上げました。
「エルイテ、知らない世界、不安……?」
 記憶がない上に異世界に来てしまった男を心配してくれているのでしょう。
 男はノームの心配を払うように、にこやかな笑みを一つ浮かべました。
「いや、不安ということはないよ。どちらかと言うと楽しみ、かな」
「良かった……!」
 男の言葉に、ノームは安堵の溜息を一つ零しました。
 男が言った言葉ですが、実際に期待が不安を打ち消しているのは事実であります。
 異世界を旅するなど、まるで男の仮の名になっている幻想小説のようで、それだけで心躍る気分でございます。
 それに異世界となれば、今まで読んだことのない本を読む機会にも多分に恵まれることとなるでしょう。
 それを考えますと、男は不安を感じている暇など全くありません。
 早く新しい本に出会いたい、その思いを胸に、男はノームを連れ立って王城前を後にいたしました。

  ≪第三章≫

 男は広庭をゆっくりと進んで行きます。
 鮮やかな緑や色とりどりの花で溢れる美しい庭は、急いで通り抜けてしまうにはとても惜しく、歩は自然とゆっくりとしたものになります。
「こういう場所ならばきっと、落ち着いて読書をできるだろうね」
 男が小さく呟きます。ただ、今すぐ読むことが出来る本を持ち合わせていませんので、実際に行動に移すことは出来ません。
 しばらく気ままに散策をしておりましたが、花の陰から不意に小さい何かがすぐ目の前に飛び出してきました。
 危うく踏んでしまうところでしたが、男は寸でのところで足を止め、それを回避することが出来ました。
 男は飛び出してきたものを確認しますと、それは影、としか言いようのないものでした。人の形をした影だけが、男をじいっと見上げていたのです。
 男は少し警戒しました。先日のケット・シーのように、こちらに敵意を持つものかもしれないと思ったからです。
 しかし、それはすぐに違うと分かりました。敵意のようなものは感じられず、どちらかと言いますと、何かを訴えるような視線に思えます。
 これは一体なんだろうと考えていますと、肩に乗っていましたノームが口を開きました。
「これ、シェイド。エンブリオ」
「へぇ、エンブリオとは、色々な種類のものがいるんだね」
 ノームとはまた違う姿をしたエンブリオに、男は思わず感嘆の声を上げました。
 目の前にいるのがエンブリオだというのでしたら、おそらく訴えるような視線の理由は一つでしょう。
 よくよく見れば、シェイドは男を見ているというよりも、男の持つ赤い花を見ているように見えます。
「これがいるのかな?」
 男はしゃがみ、ネクターを一輪シェイドに差し出します。
 すると、シェイドは一つ頷きまして、男の手からネクターを受け取りました。そして、ノームの時と同じように、ネクターが薄い光を放って消えていきました。
 どこか満足そうに見えますシェイドに向かい、男は言葉をかけます。
「私は≪蒼玉望むエルイテの庭≫と言うんだ。もし良ければ、私と一緒に旅をしないかな? 旅の仲間は多い方が楽しい、と聞くからね」
 男の言葉に、シェイドは深々とお辞儀をして答えました。
「ありがとう、嬉しいよ」
 男はシェイドに笑顔を向けます。
 こうして男は、新たな旅の仲間を得ることとなりました。


「おや、あそこに誰かいるようだね」
 男の進む先、まだ離れたところに人影が見えます。男と同じように一揆に参加している誰かでしょうか。
 人影に近づくにつれ、その風貌が明らかとなります。
 黒い鎧をまとい、手には武器を持っています。まるで兵士のように見えます。
 向こうも男に気づきましたようで、別の方を見ていた顔を、次に体を男の方へと向けてまいりました。
 そして、男が声をかける前に、向こうが言葉を発しました。
「ふふ、来たか馬鹿どもめ……」
 手に持った武器を構える人影を見て、男は思わず足を止めます。
「即刻立ち去るがいい! 世界に害をなす虫けらめッ!!」
 人影が高らかに宣言します。どうやら兵士のよう、ではなく、実際にこの城の兵士だったようです。
「さて、どうしたものかな」
 男はそう呟いてみたものの、兵士の様子から、このまま見逃してくれるということはないでしょう。この先に進むには、兵士を倒すほかには恐らくありません。
 男の戦う意志を感じ取ったのでしょうか、肩に乗っていたノームが飛び降り、男の影の上にいたシェイドも、影から出まして男の前に立ちます。
「君たちに頼りきり、と言うわけにも行かないね」
 仲間達の姿は頼もしい限りでございますが、だからと言って戦いの全てを彼らに任せるわけにも行きません。
 ここへ来る少し前、猫の姿をしたものと戦ったこともありまして、いくらか戦いに慣れてまいりました。
 ですので、男はもう少し自分の力で戦ってみようと思いました。
 肉体を直接用いた戦闘方法は未だ心許ないですが、魔術を用いてでしたら恐らくどうにかなるでしょう。
 そう考えた男は魔術を使う前に一度、自分が身に纏っているものを見ます。
 どういうわけかは思い出せませんが、ローブにも帽子にも、魔術の威力を高めるための文様が刻まれています。また、首から提げている2つのペンダントも、魔術を強化するためのものです。
 これらがどれほど魔術の威力を高めるのかは定かではありませんが、ここはあまり強力な魔術を使わない方が良いでしょう。万に一つ、強化された魔術によって兵士が酷い怪我をしてしまってはいけません。男は兵士を亡き者としたいわけではございません。
 男は記憶の中から威力の弱い初歩的な魔術を選び、その呪文を唱えました。
「……おや?」
 けれど、一体どうしたことでしょう、魔術が発動いたしません。
 もう一度呪文を唱えますが、結果は同じでありました。
「これは一体、どういうことだろう?」
 しかし、考えている時間はございません。
「喰らえええぇぇッ!!」
 兵士が男をめがけて突撃してまいりました。
「考えるのは、また後にした方が良さそうだね」
 兵士の攻撃を寸でのところで避けました男は、武器を構え直します。
 そして、エンブリオたちの力を頼ることとなりました。
「今日もよろしく頼むよ」
「うん……!」
 男が声をかけますと、ノームは威勢の良い返事で、シェイドは力強い首肯で答えました。


「これでしばらく大人しくしてもらえると、私はとても助かるよ」
 言葉とともに浴びせました一撃によって、兵士はついにその場に崩れ落ちました。
 兵士が気を失っているのを確認しますと、男は足早にその場を後にしました。
 それからどれほど進んだでしょう、先ほど兵士と戦った場所がすっかり見えなくなりました。
「ここまで来れば、もう大丈夫かな?」
 男は立ち止まって振り返ります。先ほどの兵士や、その兵士の仲間が追いかけてきている、ということはどうやらなさそうです。
 気がつけばもう日が傾き始めております。男は今日は、ここで休むことと致しました。
 丁度良い木陰を見つけて、男はそこに腰を降ろし、ふうっと息を吐きます。
 不意に、先ほどの戦いのことが頭をよぎります。
「どうして、さっきは魔術を使えなかったのかな?」
 少なくとも、男に魔術の才がない、ということはありません。メルンテーゼで目覚めてすぐ、真白い本に魔術をかけています。
「あの魔術は確か、使っている間は常に魔力を消費したはずだから、その所為なのかな」
 その消費が思いの外多いのか、あるいは消費自体は少なくも、男の魔力が少なく術を維持するだけで精一杯なのか、それは定かではありません。
 いずれにせよ、今のままでは簡単な魔術さえも使えないのですから、この先の戦いに魔術を使うのでしたら、恐らく負担になっているでしょう自動筆記の魔術を解かなくてはなりません。
 しかし、男がそうすることはないでしょう。
「戦いの度に術を解くわけにはいかないかな。私には、こちらの方が大事だからね」
 男はそう言って、真白い本の表紙をそっと撫でます。
 男は本を作るために旅をしているのです。本より戦いを優先する、などというつもりは、男には全くありません。
 そうなりますと、この先もエンブリオたちに頼ることとなりそうです。また、自身で戦う術を会得する必要もありそうです。
「私も自分で戦えるように努力をするけれど、これからも君たちの力を貸してもらえるととても助かるよ」
 男がそう言いますと、ノームとシェイドは快く頷きます。
 頼もしい旅の同行者たちに、男は笑顔を一つ浮かべました。

  ≪第四章≫

 日がとっぷりと暮れてしまいました頃でございます。
 男は夜露を凌ぐのに丁度良さそうな木を見つけまして、その下に腰を下ろしました。
「今日ははりきり過ぎてしまったかな。少し疲れてしまったよ」
 男がふうと息を吐き出しますと、不意に昼間に戦った相手のことが頭をよぎりました。
「あの動物はゴブリン、と言ったかな? ああいった動物もいるんだね」
 緑色の肌を持つ、いくらか人に似た姿の動物が目の前に現れた時には、男は大いに驚きました。その外見はもちろんのことですが、ゴブリンが知性を持っていたことにもまた驚きました。
「まったくこの世界は、私の想像を超えたもので溢れているね。最初は見間違えかと思っていたけど、あの山もどうやら、山自身が光っているようだね」
 男は城の向こうに目を向けますと、無数の光で覆われた美しい山がそびえておりました。
「あの山、星が、たくさん降ってる」
「へぇ、そうなのかい。……おや、本当だ」
 しばし山を見ていますと、ノームの言葉の通り空から一つ星が降り、山を彩る光が一つ増えました。
「近くで見たら、きっとより綺麗だろうね。その内あの山にも行ってみたいものだよ」
 しかし、今の目的地は未だ遠くに見える城でございます。それよりも遠くにある星の降る山には、当面向かうことは叶わないでしょう。
 男は気持ちを切り替えまして、一番最初に出会った想像を超えたもの、エンブリオたちに目を向けます。
 ともに行動するようになってからまだ日は浅いのですが、それでも同行する彼らのことが少し理解できてきました。
 まずはノームですが、移動の際には男の肩辺りに乗っていることが多いのですが、土の上にいることの方が落ち着くようです。今も土の上をころころと転がっています。
 また、それがエンブリオ全てに当てはまるのかは定かではありませんが、この世界の大抵のことは知っているようで、聞けば大体の事は答えてくれます。これは、この世界に来て間もない男にとってはとてもありがたいことであります。
 次にシェイドですが、出会った時から言葉を交わしたことはございませんが、どうやら言葉を喋れない、と言うことではないようです。時々声を漏らすことがありますので、どうやらただ無口なだけのようでございます。
 その代わりでしょうか、全身を使った感情表現をとても得意としているようで、意志の疎通にはさして困ることはございません。
 また、とても好奇心が旺盛なようで、興味のあるものを見つけるとふらふらとそちらへ向かうものですから、時々見失いかけては慌てて探す、ということを何度か繰り返しました。
 それから、シェイドも見た目の通り、影や暗いところの方が良いようで、今もノームの傍で楽しそうにくるくると踊っております。
 それぞれがそれぞれの良いようにくつろいでいる姿を、男は微笑ましく眺めておりましたが、不意に疑問が浮かび上がってまいりました。
「一つ、聞いてみたいんだけど良いかな?」
 男はいくらか改まった態度で、エンブリオ達に声をかけます。
「何?」
 ノームは転がるのをやめ、シェイドは踊るのをやめて、男を見上げます。
「私と契約してしまったけれど、それは良かったのかな? 話によれば、ネクターを上げてしまうと、それで強制的に契約が結ばれてしまうようだけど」
 ノームとは、それが契約とは知らずに契約をしてしまいました。シェイドにもネクターをいるかいらないかは聞きましたが、契約を結びたいかを聞きはしませんでした。
 男は、実は契約を強制してしまったのではないかと、いささか不安に思ったのです。
 しかし、エンブリオ達は揃って首を横に振りました。
「エンブリオも、契約する人、選ぶんだよ。エルイテ、良い人に、見える。だから、エルイテから、ネクター、もらったの」
 ノームは一生懸命思いを言葉にします。その隣で、シェイドもうんうんと頷いています。
「そうか、それなら良かったよ」
 男は胸を撫で下ろしました。
 不安が解消されますと、急に眠気が首をもたげてまいりました。今日は本当によく動きましたから、それも仕方のないことでしょう。
 シェイドが遊んでほしそうに男を見上げていますが、男はシェイドの頭を撫でて謝罪を口にします。
「すまないね、もう目を開けていられそうにないんだ」
 すんなり聞き入れてくれたのでしょう、シェイドはこくりと頷いて、いつの間にかまた転がり始めたノームの傍へ行き、一緒に転がり出しました。
 男はその様子に笑みを一つ浮かべ、そしてそのまま眠りにつきました。

  ≪第五章≫

 穏やかな昼下がり、本日も男は広庭を歩いておりました。
 さすがは王城を囲む庭と言ったところでしょうか。もう何日も歩いておりますし、数多くの未知の植物を見て参りましたが、それでもいまだに見たことのない植物を見かけることがございます。
 今もまた、男は薫り高い花を見つけて足を止めています。
「へぇ、良い香りの花だね。似たような花を図鑑で見たことがあるけれど、そちらは確か、ほとんど香りのしない花だと書いてあったかな」
 男は深く息を吸って花の香りを楽しんでおります。
 男の言葉に興味を抱いたのでしょうか、ノームがこんな質問を男に投げかけて参りました。
「エルイテの、元いた世界って、どんなところ?」
「ん? 私がいた世界かい?」
 男は視線を花からノームへと移します。
「そうだね……まず、私のいた世界には、月が3つあったんだよ」
「月が、3つ?」
「そう。3つとも色も大きさも違ってね。一番大きな珊瑚色の月、二番目に大きいのが黄金色の月、一番小さいのが白銀色の月なんだ。そうそう、私の名前に使われているエルイテというのは、一番小さい白銀色の月の名前なんだよ」
「へぇ」
 男の話に、ノームだけではなくシェイドも興味津々な様子でございます。
「あとは……そうだね、ある高山の頂上付近に"空中庭園"と呼ばれる花畑があったり、一面美しい石で覆われた洞窟があるそうだよ」
「石……!」
 ノームが石という単語に良い反応を示します。
「ノームは石が好きだったね。様々な石がその洞窟にはあるそうだから、きっと君は気に入る思うよ」
 男はノームににっこりと微笑みかけますが、すぐにいささか残念そうに眉尻を下げてしまいました。
「あいにく、本で読んだだけで、実際にこの目で見たわけではないのだけどね。私が目覚めたのは廃墟だったし、そこから一歩も出なかったからね」
「どうして、廃墟から出なかったの?」
 男の言葉に、ノームもシェイドも不思議そうにしています。
「その廃墟は、元々は図書館だったみたいでね。私は何一つ記憶を持っていなかったけれど、本を読みたいという気持ちだけはあったんだ。幸運なことに、その廃墟には数多くの本が残っていたから、私はずっとそこで本を読んでいたんだよ」
「エルイテの、名前になった本も、そこにあったの?」
 ノームの質問に、エルイテは頷いて答えました。
「そうだよ。蒼玉望むエルイテの庭は、白銀色の月にあるらしい楽園を目指して旅をする空想小説なんだ」
 男は目を閉じて気に入りの本の内容を思い出します。目の前に広がる花々よりもなお鮮やかな光景が、瞼の裏に浮かび上がります。
 男は数秒の後に目を開け、話を続けます。
「でも、そのうちにその廃墟にあった本を全て読み尽くしてしまってね。まだまだ本を読み足りなかった私は、ならばいっそ自分で新しい本を作ってしまおう、と思い立ったんだよ。蒼玉望むエルイテの庭のような、面白い本をね」
 男はそう言って、懐にしまっておりました表題の無い本を取り出しました。
「この本を完成させることが、私の旅の目的なんだ」
 しかしここで、ノームが一つ疑問を口にします。
「でも、エルイテ、本を書いてるところ、見たことない」
「ああ、それはこういうことなんだよ」
 男は、中身を見てしまわないように、慎重に本を開いてノームとシェイドに見せます。
「……!」
「勝手に、書かれてく……!」
「自分で書いてしまっては、読む楽しみが半減してしまうからね。だから、独りでに文章を綴る魔術をかけてあるんだ」
 男はそっと本を閉じて、表題の書かれていない表紙を優しく撫でます。
「本が完成したら一気に読もうと思っていてね。今から本の完成を楽しみにしているんだよ」
 不意に、シェイドがぱたぱたと手を動かします。何か聞きたいことがあるようですが、あいにく何を聞きたいのかまでは、男には分かりませんでした。
 首を傾げておりますと、ノームがシェイドの言葉を代わりに伝えてくれました。
「元の世界に、帰らなくて良いのか? って」
「ああ、そういえば……考えたこともなかったよ」
 本当にその通りなのでしょう、男は今始めて気づいたと言った表情をしております。
「ああでも、そうだね……帰る方法があるのなら帰りたいかな。その方法が無いのなら、別にそれでも構わない、かな」
 本さえ読めればそれで良い、というのが第一なのでしょう。男は元の世界へ戻ることに、特に強い関心などはないようでございます。
「けれど、もしその方法が分かっても、それが私に扱えるものなのか、いささか不安ではあるね」
「?」
 揃って首を傾げていますノームとシェイドに、男は自分の考えを説明します。
「もしも世界を渡る方法が魔術に依るものだとしたら、魔力の少ない私には扱うことが出来ないんじゃないかと思ってね。場所どころか世界を越えてしまうような魔術、恐らく膨大な魔力を必要とするだろうから」
 昨日今日と、男は自分がどれぐらいの魔力を本のために使っているのかを気にかけていましたが、どうやらそこまで多くの魔力を消費しているわけではないようです。そうすると必然的に、男の魔力が少ない、という結論に達することとなります。
 しかし、エンブリオ達が疑問に思っているのは、どうやらそこではないようです。
「……エルイテ、どうやって、この世界、来たの?」
 ノームに問われて始めて、男は自分がこの世界に来た時のことを話していないことを思い出しました。
「生憎、どうやってこの世界に来たのか、私には全く分からないんだよ。その辺りの記憶もなくしているみたいでね。恐らく魔術を用いたんだろうけれど」
「そういえば、エルイテ、ここが異世界だって、最初知らなかった」
 ここまで話して、ノームは男と出会った時のことを思い出したようです。
「あの時は本当に驚いたよ」
 男は困った笑みを一つ浮かべました。
「しかし、魔術で世界を渡ってきたんだとしても、やはり疑問が残ってしまうね。そんな大それた術、私に扱えるとはとても思えないんだ……」
 その言葉を最後に、男は目を伏せます。
 元の世界に帰ることに拘りはございませんが、どのようにしてこの世界にやって来たのかには、いささか興味があります。ですので、何か思い出せないかと、目を伏して記憶を辿ってみたのであります。
 しかし結局、この世界に来た方法を思い出すことはありませんでした。
 男は一度諦めて目を開けました。すると、そこにはノームの姿しか見えませんでした。
 シェイドはどこへ行ってしまったのかと辺りを見回しますと、少し離れた所にあります背の低い木で何かをしているようです。
 やがて、シェイドは赤い何かを抱えて戻って来まして、それを男へと差し出しました。
 シェイドから受け取ったものは、どうやら木の実のようです。ほどほどに柔らかく、また甘い香りが漂ってきます。
「これは、木の実かい?」
 男がシェイドに確認を取りますと、シェイドはこくりと頷き、そして男をじいっと見つめます。おそらく食べろ、と言うことなのでしょう。
 シェイドの視線に促されるまま、男は木の実を口に入れました。噛むと香り以上の甘さが口の中いっぱいに広がります。
「ありがとう、美味しいよ」
 男がお礼を言いますと、シェイドは一度嬉しそうに跳ねて、再び木の実を取りに行きました。そして、先ほどより短い時間で戻ってきて、男に新しい木の実を差し出しました。
 男は木の実を受け取りますが、何故急に木の実を勧められたのか、いささか意図を読み取れずにおりました。
 その旨をシェイドに問いますと、シェイドはパタパタと手を動かし、それをノームが言葉にしてくれました。
「木の実、食べたら、魔力、回復するかも、って」
「……ああ」
 男は少し間を置いて、シェイドが意図するところを理解致しました。
 おそらくシェイドは、男が元々高い魔力を持っていて、けれど世界を渡った際に消耗しきってしまい、それが未だ回復しきっていないと考えたのでしょう。ですから、木の実を食べることによって、少しでも魔力を回復してほしい、という気遣いなのでしょう。
「ありがとう、シェイド」
 男は再びお礼を言って、受け取った木の実を食べました。
 それから立ち上がり、今度は自分で木の実を取りに行きます。ノームとシェイドも男についてきます。
 男が木の実をいくつか摘み取り、今度はノームとシェイドに差し出します。
「君たちも食べるかい?」
「うん……!」
 ノームもシェイドも、エルイテの手から木の実を受け取って食べます。
 男も手に残った木の実を1つずつ口へと運びます。
「ごはん、大事」
「嗚呼、そうだね」
 男が相槌を打ちますと、ノームが不意にこのようなことを言ってきました。
「でも、エルイテ、ごはん食べてるとこ、見たことない」
「おや、そうだったかな?」
 ノームに言われて、男はメルンテーゼに来てからのことを思い出します。確かにノームの言うとおり、こちらに来てからは一度も食事を取っていないかもしれません。
「そう言われたら、そうだったかもしれないね。あまりお腹が空かなくてね、食事を取るのを忘れていたみたいだ」
「人間、ごはん、大事」
 ノームは真剣な眼差しで男を見上げてきます。
「そうだね、これからはもう少し食事には気をつけるよ」
 そう言って男は、また1つ木の実を口に入れました。


「お腹、いっぱい……」
 ノームもシェイドも満足そうにお腹を撫でています。男もほどほどに木の実を食べて、久しぶりにいくらか満腹感を覚えています。
 男は、エンブリオ達にひとつ提案をします。
「まだ日は高いけれど、今日はこの辺りでゆっくりしようか」
「いいけど、どうして?」
 ノームとシェイドは揃って首を傾げます。
「シェイドに気を遣わせてしまったから、今日は魔力の回復に努めようと思ってね。魔力の回復には食事も良いけれど、休息を取ることがより効果的なんだ」
 男が理由を述べますと、エンブリオ達は快く頷きました。
 それから、休息を取るのに丁度良さそうな木陰を見つけまして、揃ってそこへ移動いたしました。
「エルイテ、魔力、回復すると、良いね」
「そうだね。回復するだけの魔力があれば、だけどね」
 消耗して回復していない魔力があるのかは定かではありませんが、そうであることを願うばかりです。例え元の世界に戻るに足る魔力ではなくとも、今より自由に使える魔力が増えれば、きっと何かと便利になるでしょう。
 そのようなことを考えながら、男は残りの一日をゆっくりと過ごしました。

  ≪第六章≫

 もうすっかり暗くなってしまった頃でございます。
 男は今まで進んでおりました広庭ではなく、石の多い地面の上を歩いておりました。その足取りはとても重く、またかすかに水の音が聞こえていることにも気づかないほどに、男は疲弊しているようでした。
 なぜ男がこのような状態でこの場所を進んでいるのかと申しますと、先刻庭師のブランチマンという男と、男が連れた少女と戦ったことが原因でございます。元は王宮騎士団副長だったと言います庭師はとても強く、男は庭師の一撃を食らっただけで動けなくなってしまったのです。
 また、ブランチマンを打ち負かさなければ、それ以上広庭を進むことは困難だったため、男はやむなく進路を変えた次第でございます。
 フラフラとした足取りで歩いておりました男は、少し先で何かがキラキラと光っていることに気づきました。また、ここでようやく水音にも気づきました。
 何が光っているのかと気になりました男は、気力を振り絞りましてそれに近づきました。
 光を放っているものの正体は川でした。川底によく光を反射する石がある、というわけではなく、どうやら川の水そのものが光を放っているようです。
「これは……とても美しいね」
 男が一言呟きますと、おそらくもう体力も気力も尽きてしまったのでしょう、その場に力なく座り込んでしまいました。
 怪我自体は、かすり傷のみで大したことはないのですが、ブランチマンの重い一撃によって体のあちこちが痛みます。また、眠気も酷く、まぶたを開けているのもそろそろ限界でございます。
 少しの間おろおろと男の周りにいたエンブリオ達は、散り散りにどこかへ走って行きました。きっとまた、何か食べられるものを探しに行ってくれたのでしょう。
 しかし、男はエンブリオ達の帰りを待つことができず、気を失うように眠りに落ちてしまいました。


 明くる朝、眩しい朝日によって男は目を覚ましました。
 男は体を起こしまして、体調を確かめます。昨日のことがまるで嘘のように体が軽く、すっかり回復しているようです。また、かすり傷も綺麗に治っているようです。
 エンブリオ達の方を見ますと、ノームもシェイドもよく眠っているようです。その近くには木の実で小さな山が築かれています。
 エンブリオ達が目を覚ますのを待っていますと、やがてノームもシェイドも目を覚ましました。
 エンブリオ達は男が目を覚ましているのを見るや否や、あわあわと男に声をかけました。
「エルイテ、大丈夫?」
「ああ、もうすっかり大丈夫だよ。心配をかけてしまって悪かったね」
 にこやかに答える男の様子に、ノームもシェイドもほっと胸を撫で下ろしました。
 それから、朝食に木の実を食べながら、ノームに今いる場所の説明をしてもらいました。
 ここは星屑の小川と呼ばれている場所で、この川はどうやら白の方から流れてきているようです。
「では、この川を辿ると、城に辿り着けるということかな?」
「うん、そのはず」
 男はしばし思案します。今の男の実力では、ブランチマンを打ち負かして先に進む、というのはいささか現実的ではありません。ならば、この星屑の小川を進む方が良いかもしれません。もちろん、川の上流にブランチマンのように誰かが待ち構えているかもしれませんが、それでも、何度もブランチマンに挑んでは打ち負かされるよりは、ずっと先に進める可能性があるでしょう。
「じゃあ、しばらくは川沿いに進もうか。広庭はあれ以上進めそうにないからね」
「うん……!」
 男の言葉に、ノームもシェイドも快く頷きます。
 やがて木の実を食べ終わると、男たちは川の上流を目指して歩き始めました。

  ≪第七章≫

「少し、気の毒なことをしてしまったかな?」
 言葉とともに、男は倒れこんだ水着の兵士を見やります。
 何故兵士がこのような格好をしているかと申しますと、水浴びをしていた最中に、男がこの場へとやって来てしまったためでございます。
 兵士は男の姿を見るや否や、服を着ることなく、武器だけを手に取り、男へ攻撃を仕掛けてきたのです。
 そして、その結果が今のこの状況でございます。
 先に動いたのは兵士の方ですが、いささか気が咎めるのもまた事実でございます。男は全く意図していなかったとは言え、結果として不意打ちになってしまったのです。
 ですから、男はせめてものお詫びと申しましょうか、倒れている兵士が風邪を引かないよう、彼の服をかけてからその場を後に致しました。


「それにしても、こんな所にも見張りの兵士がいるんだね。積極的に戦いたいわけではないから、少し気をつけて進まないといけないね」
 先ほど兵士と戦った場所からいくら離れたところで一休みをしている時に、男が呟きました。
 その言葉で不意に疑問に思ったのでしょう、男はノームから次のような質問をされました。
「エルイテは、一揆、参加するの?」
「ん、一揆かい?」
 ノームは王城前に辿り着く前から男と一緒にいますから、今こうやって男が王城を目指しているのがただの成り行きである、ということを知っています。また、男は一揆に対する考えを一度も表明したことはありません。ですので、そのような疑問が浮かんだとしても、至極当然でありましょう。
「そうだね……消極的ながら参加する、と言ったところかな。私の一番の目的はこの本を完成させることだからね」
 そう言って男は、表紙に何も書かれていない本を一度優しく撫でます。
「けれど、この世界の人もエンブリオも、王様のせいで困っているようだからね。私で力になれるのなら、力を貸そうと思っているよ。……本を完成させるついで、みたいになってしまうけれどね」
「ありがと、エルイテ……!」
 お礼を述べるノームの隣でシェイドも深々と頭を下げています。
 ノームとシェイドに男は笑みを一つ浮かべることで答え、そしてこう続けました。
「ただ、私自身は戦うことがあまり得意とは言いがたいからね。戦わずに話し合いでどうにかなれば良いんだけれど……どうなのかな? 王様というのは、話を聞いてくれるような人なのかな?」
「王様、どんな人か、分からない……」
 シェイドも首を振っています。
「そうか……。では、実際に会ってみないことには分からないね」
 現状から考えますと、話し合いで解決というのはあまり期待はしない方が良いかもしれません。もし、話し合いで解決しているのであれば、今頃一揆など起こっていないでしょうから。
「一揆、成功、するのかな……?」
 ノームがいささか不安そうに呟きます。
 ネクターを独占している王は、エンブリオから見ればあまり良くない印象でしょう。また、男との会話で話し合いではどうにかならないかもしれない、と考えたのでしょう。不安に思うのは当然でございます。
 ですから、男はエンブリオ達の不安を拭い去るように、努めて明るく言いました。
「大丈夫、きっとどうにかなるよ。一揆に参加している人は多いからね。これだけ多くの人がいれば、誰かが王様のネクター独占を止めさせることができるよ」
 もしかしたら、それを成すのは私たちかもしれないしね、と男は付け加えます。
「うん……!」
 男の言葉で、エンブリオ達の表情がいくらか明るくなりました。
 そうして、男は本のためと一揆のため、立ち上がり、川を辿って城を目指すために再び歩き始めました。

  ≪第八章≫

   第6章第3節 五月革命

 ◆4
 872年5月16日、この日ついに、ヴェニークト郷を筆頭とした王に反乱した軍の一部や貴族、そして多くの市民によって王城の襲撃を決行した。圧倒的な数の差により、軍が抵抗をする間もなく王城を制圧。国王一家も捕らえられ、塔に幽閉する。
 以降、王制を廃止し、投票による国家元首の選出が行われるようになる。初代国家元首は反乱の立役者であるヴェニークト郷。また、かねてよりヴェニークト郷が主張していた市民の人権が保障される。

   『ミューグテゼの歴史』 
   1287年3月1日 ワーノン出版発行


「……ということが、私がいた世界でもあったんだよ」
 星屑の小川の川辺を歩きながら、男はかつて廃墟で読んだ歴史書の中から、一揆や革命に関する話をいくつか選んでエンブリオ達に話して聞かせます。例え異世界のことでも、実際に一揆や革命が成功した話をすることは、エンブリオ達を勇気付けることになると考えた次第でございます。
 エンブリオ達は、とても興味深そうに男の話に聞き入っています。
 そんなエンブリオ達に、男は少しばかり申し訳なさそうに、一言付け加えます。
「古い例ばかりで申し訳ないけどね」
「古いの?」
 ノームが聞き返しますと、男はおもむろに頷きます。
「廃墟には運良く壁にかけられたカレンダーが残っていてね、そのカレンダーには1332年と書かれていたんだよ。だから、今話した革命は、少なくとも460年以上昔のことになるね」
 へぇ、とノームが声を漏らします。
「新しいのは、ないの?」
 ノームの問いに、男はしばし考える素振りをして、それからゆっくりと首を横へと振りました。
「いや、この後にはなかったよ。この革命の後は、何かあっても全て平和的に解決されていたようだからね」
 男はこう答えましたが、実際は五月革命ほどの規模ではないものの、小さな反乱は時折起こっていたようです。ただ、反乱を起こす側の主張がおかしなものであったり、あるいは規模が小さすぎて瞬く間に制圧されてしまったりと、いずれも失敗の例しかありませんでしたので、男はあえて話さずにいたのです。
「もっとも、歴史書にはまだ載っていないような最近に何かあったとしたら、それは分からないけどね」
「どうして?」
 ノームと、それからシェイドも、首を傾げて男を見上げます。
「最近のことが分かる、新聞や雑誌を保管していた一角が完全に崩壊していてね。知りようがなかったんだ」
 男の言葉に、エンブリオ達は納得したように頷きます。
「……あの一角が無事だったら、あの廃墟が打ち捨てられた原因の一端ぐらいは分かったのかな」
 不意に、男がそのようなことを呟きました。
 廃墟にいた頃は、残された本を読むのに夢中で、何故廃墟になってしまったのかには全く考えが至りませんでした。しかし、こうして離れてみますと、何故大きな街1つがそっくり廃墟になってしまったのか、いささか気になるというものでございます。
 男が目を覚まして間もない頃に見た街は、もちろん完全に崩落してしまった建物もございましたが、修繕すれば問題のないものも多くございました。それをせず、街ごと打ち捨ててしまうと言うのは、男からすれば少しばかり不思議に思えたのです。
 男が思案に耽っていますと、シェイドがパタパタと手を動かしまして何かを訴えます。それをノームが言葉に変えます。
「他の街に行って、調べなかったの? って」
 当然浮かび上がってくる疑問に、男は眉尻を下げながら答えます。
「他の街に行く前に、このメルンテーゼに来てしまったんだよ。もっとも、本当は他の街に行っていたけど、その記憶をなくしているだけかもしれないけどね」
 そう、本来ならば本を作る旅の過程で、自然と分かったことでしょう。しかし、メルンテーゼへと渡ってしまいました今は、あの街が廃墟となった理由は分からずじまいでございます。
「おや」
 不意に男が空を見上げますと、もうすっかり日が沈んでしまっておりました。今日はもう、これ以上進むのは止めておいた方が良いでしょう。
「もう今日はこんな時間だから、この辺りで休もうか」
 川の水がかからないように少しばかり距離を取りまして、男が座り込みました。
 シェイドが再びぱたぱたと手を動かします。今度はノームに代弁してもらわずとも分かります。男と一緒に遊びたいのでしょう。
 しかし、男は申し訳なさそうにシェイドの頭を優しく撫でます。
「悪いね、今日はたくさん話したせいか、もう眠くてね」
 男がそう言いますと、シェイドは気を落としたように、こくりと頷きます。
 その様子を見ておりましたノームが、遊ぼうとシェイドの手を引きます。シェイドは、今度は嬉しそうに頷き、そして男の眠りを妨げないように、少し離れた場所へと移動しました。
 男はそれを微笑ましく見届けると、横になり目を閉じました。
 その瞬間、不意にあの廃墟のことを頭をよぎりました。
「そういえば……」
 男の頭によぎったのは、あの廃墟にあった本のことです。
 ある時期以降――確か1317年以降でしょうか、発行された本の数が、それまでと比べると明らかに減っていたのです。小説や児童向けの本はそれが顕著でした。また、魔術書に至っては一切発行されておりませんでした。ただ、発行数が逆に増えているものもございました。武術を学べる本がそれに当たりました。
「あれは、どうしてだったのかな……」
 発行数が増えているものもあることから、あの廃墟が廃墟になる前に、蔵書を増やすことを止め始めた、ということはなさそうです。
 ならば、他には一体どういう理由があったのでしょう。
 気にはなりましたが、眠気に抗えなかった男は、それについて考えず眠りに落ちてしまいました。

  ≪第九章≫

   森を彷徨う鎧

 ある時、狩りのために男が森へ入ると、どこからともなく奇妙な音が聞こえてきた。がしゃん、がしゃん、という金属がぶつかるような音だ。
 不思議に思った男が音の出所を探ると、全身を鎧で包んだ人間が、ゆっくりゆっくりと歩いていた。鎧にはミューグテゼ国軍の紋章が入っている。軍人が一体こんな所で何をしているのだろう。
 男は鎧に声をかけた。こんにちは、軍人さん。こんな何もない森で何をしているんですか?
 すると鎧は、遅い動作で男へと向き直った。そして、じっくりと男の姿を見ていたかと思うと、腰に差した剣を抜き、男に襲い掛かってきた。
 いきなりのことに驚いた男は逃げることができず、両腕で顔を隠し、目を堅く閉じた。
 死を覚悟した男は、しかしいつまで経っても剣で切りつけられる感触も、刺される感触も訪れないことを怪訝に思った。
 恐る恐る目を開けると、不思議なことに鎧の姿はどこにもなかった。
 全く訳が分からない状況に、男はかりのことなど忘れて急いで村へと帰り、そして村人たちに今しがた自分が体験したことを大声で話した。
 すると老人の一人がこんな話をした。
 あの森は昔隣国との戦いの場となった場所で、時折その時倒れた兵士の幽霊が現れれるのだと。きっと今でも敵を探してさ迷っているのだろう。

   『ダーズ地方における民間伝承』
   1264年9月10日 フリスト書房発行


「……という話に出てきた幽霊を思い起こしてしまったけれど、ナイトスピリットも幽霊か何かだったのかな?」
 ボロボロになってしまいました体を木の幹に預けて、男は先日のように廃墟で読んだ本の内容を話します。そして、先ほど戦い、そして圧倒的な力の差を見せつけられましたナイトスピリットについて尋ねます。
「ううん、ナイトスピリット、エンブリオ。幽霊じゃないよ」
「おや、そうなのかい?」
 ノームから返ってきました答えに、男は幾許か目を丸くします。
「てっきり、エンブリオというのは友好的なものだと思っていたよ」
 君たちのようにね、と男が付け加えますと、ノームは一度頷いて説明を始めました。
「うん、仲良しが良い、エンブリオ、いっぱいいる。でも、お腹空いて暴れてるのとか、もともと戦うのが好きなのとかも、いるの。今までも、何度か、エンブリオと戦った。カッパとか、チワワとか」
「それは気づかなかったよ。エンブリオにも色々いるんだね」
 男は頷いていますと、ノームが更に説明を続けます。
「でも、襲ってくるエンブリオに勝つと、そのエンブリオと、契約できるよ」
「おや、てっきり契約は出来ないのかと思ったよ」
 男は再び目を丸くします。
「戦うと落ち着いたり、こっち強いのを認めてくれたりで、契約できるように、なるの」
「へえ……では、もしナイトスピリットに勝てていたら、契約できたのかもしれないんだね」
「うん」
 男の言葉にノームが頷きます。
「しかし、ナイトスピリットにはとても勝てる気がしないね」
 男が眉尻を下げて笑いますと、全身に痛みが駆け巡ります。
 痛みが落ち着くのを待ちましてから、男は再び口を開きます。
「……けれど、ナイトスピリットが幽霊ではなかったのは、少しばかり残念かな」
「どうして?」
 ノームもシェイドも、揃って首を傾げます。
「本で読んだものの実物を見れたのかと思ってね。やはり、実物を見るのは楽しいからね」
 男が残念そうに微笑むと、シェイドが手をパタパタと動かして何かを主張します。それを見たノームも、何かを思い出したようです。
「幽霊なら、この世界、いるよ」
 ノームの言葉を裏付けるように、シェイドもこくこくと頷きます。
「おや、それならその内どこかで会えるかもしれないんだね」
 エンブリオ達の思わぬ言葉に、男は嬉しそうに頬を緩めます。
 嬉しそうな男に、ノームはどことなく心配そうに声を上げます。
「でも、幽霊、おっかないの多いから、気をつけないと」
「ああ、分かったよ」
 男は頷きますと、大きなあくびを一つしました。
「……疲れ切ってしまうと眠くなるのが早くなっていけないね」
 男はそう言って空を見上げます。オレンジ色の空に太陽はまだ輝いてございます。
 男はエンブリオ達に就寝の挨拶をして、そしてあっという間に眠りに付きました。

  ≪第十章≫

 明くる朝、ナイトスピリットとの戦いによって痛めつけられた男の体は、すっかり元の調子を取り戻しておりました。
「エルイテ、もう、大丈夫なの?」
 ノームがまだどこか心配そうに声をかけてまいりますが、男はそれを打ち消すように笑顔で答えます。
「ああ、もう大丈夫。すっかり元通りだよ」
 男の様子に安心したのでしょう、ノームもシェイドもそれぞれ胸を撫で下ろしました。
「さて、今日は先に進めると良いんだけどね……」
 男は川の上流、城のある方向を見ます。
 昨日はナイトスピリットによって行く手を阻まれてしまいましたが、果たして今日は一体どのようになるでしょう。


 しばらく川沿いを進んでいますと、頭に角が生えているように見えます、大きな蛇がおりました。
 蛇は男たちの姿を認めますと、こちらに鋭い牙を見せてまいりました。どうやら、今日もまた戦いを避けることはできないようでございます。
「致し方ないね」
 男が棍棒を構えますと、不意にノームが男の前へと躍り出ました。
「ぼく、もっと頑張る……!」
 言葉とともに、ノームの全身が光に包まれました。
 数秒の後、光が収まりますと、ノームが本来の姿よりも大きくなっておりました。今までは手に乗せやすい大きさでしたが、倍ほどに大きくなったその姿は、手に乗せるのにはいささか厳しそうです。
 ノームの思わぬ変化に男は目を見開きましたが、頼もしさを増したノームにすぐに目を細めました。
「ああ、よろしく頼むよ、ノーム」
 普段より大きなノームと、普段どおりのシェイドとともに、男は目の前の大蛇に戦いを挑みました。
 しかし数刻後、奮闘虚しく、男は大蛇に打ちのめされてしまいました。


 痛む体を引きずりながら、男たちは昨日野宿した場所まで戻ってまいりました。
 そしてまた、昨日と同じ木の幹に、男は体を預けました。
「エルイテ、大丈夫……?」
 ノームとシェイドが不安そうに男の顔を覗き込みます。
「ああ、大丈夫。昨日よりはずっと良い状態だよ。ノームが大きくなってくれたおかげかな」
 男は、あまり体に痛みが走らないよう、そっと笑みを浮かべます。
「それにしても、先ほどのノームは凄かったね」
 男の言葉に、ノームが胸を張ります。
「ボクたち、少しずつ、強くなってるの……!」
 その結果が、先ほどの戦闘での巨大化なのでしょう。
 ノームの横で、シェイドがパタパタと両手を動かします。いつものように、それをノームが言葉にします。
「シェイドも、そのうち、おっきくなれるように、なるよ」
「おや、それは頼もしい限りだね。ノームとシェイド、両方とも大きくなってくれるなら、きっとこれからの戦いが楽になるだろうね」
 男は笑顔を向けますが、しかしノーム何かに気づきましたようで、幾分か申し訳なさそうな雰囲気で口を開きます。
「でも、おっきくなるの、契約してる人の、魔力がいるの……」
「私の魔力……だとすると、両方ともを巨大化させるのは私では無理、なのかな」
「多分……」
 ノームの言葉に、男は今度はいくらか悲しそうに笑います。
「そうか、それ残念だね。私にもっと魔力があったら良かったんだけどね」
 そもそも、ノームを巨大化させるための魔力を一体どのようにして捻出したのか、そういった疑問が男の心に浮かびます。本にかけた魔法と、エンブリオとの契約で、恐らくほとんど余裕はないはずでございます。
 しかし、それをよく考えることは、既に眠気に襲われている男には不可能でございました。

  ≪第十一章≫

 巨大なイカと戦っていた時のことです。
 集中的に狙われました男は、既に立っているのもやっとの状態でございました。
 そこへ、巨大なイカが雄叫びとともに足の一本を大きく振り上げました。
「ギュオオオオアアアアアアアアアアアァァァァアアアアアアアァァァァァァァッ!!!」
「――っ!?」
 避けることもままならず、イカの足に薙ぎ払われた男は、ざぶん、と大きな音を立てて川へと落ちてしまいました。
 そのまま気を失ってしまいました男は、少しばかり川の流れに身を任すこととなりました。


「まったく、酷い目に遭ってしまったね」
 少し後、意識を取り戻しました男は、あちこち痛む体でのろのろと川から上がりまして、まずは本の状態を確かめました。
「……良かった、濡れてはないようだ」
 幸いなことに、本は一切水の被害には遭っていないようでした。
 それでも念には念を入れまして、男は木の下で火を起こして、本を火から少し離れた所に置きました。
 次に、男は水を多分に含んだ帽子を絞り、それから火の真上にある木の枝の上に乗せました。
 それから、一番被害の酷いローブも同じようにしようと思い、ローブを脱ぎましたところ、今まで見ることのなかった背中側に、ある模様が描かれていることに気づきました。
「おや? これは……軍の紋章、だったかな?」
 剣と盾を重ねた図柄をひし形が囲み、ひし形の4つの頂点には石を模した丸が描かれております。あの廃墟でも幾度となく目にしました、ミューグテゼの国軍の紋章でございます。
「何故私が、軍の紋章の入ったローブを着ているのだろう?」
 首をひねりながらも、男はローブを乾かすために、絞ってから木に掛けました。
 そこへ、ノームが不思議そうに尋ねてまいりました。
「エルイテ、今まで、知らなかったの?」
「ああ、目覚めてからずっと着たきりだったからね。背中に軍章が入っていることは知らなかったんだよ」
 男は火の近くの、木に掛けたローブが見える場所へと座り込みます。すっかり冷え切ってしまった体と、ローブほどではありませんが湿ってしまった服を乾かすためです。
 火に当たりながら、男はかすかに揺れるローブを見上げて、そして困ったように笑みを一つ零しました。
「それにしても、記憶をなくす前の私が軍属だったとは、いささか信じがたいね」
「どうして?」
 ノームとシェイドが揃って首を傾げます。
「ローブと帽子、それに2つのペンダントにはどれも魔術を強化するための文様が刻まれているから、恐らく、軍の中でも魔術を専門に扱う部隊に所属していた、と考えられるんだ。近接戦闘を行う部隊でも魔術を用いていたようだけど、こんなに沢山の紋様は必要ないはずだからね」
 エンブリオ達はこくこくと頷きながら、男の説明を聞いております。
「それで、あの廃墟で読んだ本によると、魔術を扱う部隊に入るには魔力を一定以上扱えないといけないようなんだ」
「あっ」
 ここまでの話で、ノームもシェイドも男が信じがたい、といった理由に思い至ったようであります。
「そう、扱える魔力が少ない私が、魔術を理由に軍に所属していたとは考えづらくてね」
 男は苦笑を一つ浮かべます。
「しかし、どれか一つだけと言うならともかく、恐らく装備の一式を人から譲り受けて、そのどれも欠かさず身に着けている、と言うのもまた考えにくいからね。それならば、記憶を失う前の私は軍属だった、と考える方が自然なのだろうけど……」
 かつて自分が軍属であったと結論付けることにも違和感があるようでございます。
 そこに、ノームが控えめに口を開きます。
「エルイテの魔力、まだ回復してないだけ、っていうのは……?」
 ノームの言葉に、男はかつてのやり取りを思い出します。今は魔力を消耗しているだけだと考えましたシェイドが、魔力の回復のために木の実を採ってくれた時のことでございます。
 しかし男は、いくらか申し訳なさそうに首を左右に振りました。
「その可能性は、さすがにそろそろなくなる頃だと思うんだ。例えば世界を渡る際に大量の魔力を消耗したとしても、今も全く回復してないと言うのはありえないからね」
 そう言いますと、男は簡単な魔術を使おうと試みましたが、しかし魔術が発動する気配は全くありません。
「そっか……」
 ノームは残念そうに呟きました。
「ただし、別の可能性がないわけではない、かな」
「?」
「魔力が回復した端から消費していて、結果いつまで経っても魔力が回復しないような形になっている、と言った感じかな。これなら、かつて軍属になれたことにも説明がつくからね」
 男はここで一度言葉を区切り、苦笑を浮かべます。
「もっとも、何に消費しているかの心当たりは全くないんだけどね。本にかけた魔術はそこまで消費するようなものでもないから、これとはまた別に、と言うことになるんだけど」
 もしこの仮説が正解だったとして、男にその心当たりがないことについては、さして不思議ではないでしょう。なにせ男は記憶を失っているのです。もし、あの廃墟で目覚めるより以前に大量の魔力を消費する術を使ったのでしたら、今の男には分かりようがありません。
「さて、今日はもうそろそろ限界のようだ」
 そう言うと、男は欠伸を一つ零しました。巨大イカに打ちのめされた影響でしょう、まだ空は明るい色をしておりますが、全身の痛みなど気にならないほどの眠気に襲われ始めました。
「エルイテ、眠いの?」
 ノームが聞きます。その隣では、シェイドがいくらか残念そうにしております。
「ああ。悪いけれど、今日はもう休ませてもらうよ」
 言うが早いか、男はその場に体を横たえました。
「おやすみ、ノーム、シェイド」
「おやすみ、エルイテ」
 ノームは言葉で、シェイドは言葉の代わりに両手を数度振って答えました。
 言葉と行動を受け取りました男は、目を閉じて意識を手放し始めました。
 その最中のことでございます。男はひとつの可能性を思いつきました。
(もしかしたら、このどうしようもない眠気も、何かで消耗した魔力を回復するため、なのかな……)
 疲弊しきった時に限りいつもよりも早い時間に眠くなってしまいます理由が、体を休めるためだけではないのでは、と男は不意に思いついたのです。
(だとしたら、私の体に何か術をかけた、のか、な……)
 考えを巡らせようにも、しかし眠気によって頭が働きません。思考の続きは翌朝へと持ち越すことと致しました。

  ≪第十二章≫

 巨大なイカを倒して進むのを一旦諦めまして、別の道を歩いていた時のことでございます。
 男は昨日、眠りにつく前にしておりました話の続きをします。
「何か別の魔術で魔力を消費している、と言う可能性がありそうな気がしてきたんだ」
「どうして?」
 ノームもシェイドも首をかしげて理由を尋ねます。
「私は疲れ切ってしまうと、日が高いうちから眠ってしまうだろう? あれはやはり、消耗しすぎた魔力を回復するためのものだと思うんだ」
 男は一度、言葉を区切ります。
「おそらく、私の体に何か魔術をかけているんだと思うんだけどね。それが何かは分からないけれど」
「エルイテに?」
 エンブリオ達は、なぜ男自身に魔術をかけていると推測できるのか分からない、と言った様子です。
 それについても、男は説明いたします。
「例えば物に魔術をかけたのなら、魔力が尽きたら魔術も自然に解けてしまうんだ。でも、私が私自身に魔術をかけた場合は、魔力が尽きかけても自然に魔術が解けるということはないんだ。そのかわりに、魔力を回復する行動に出て魔術を維持しようとする、という訳なんだよ」
 エンブリオ達が納得した様子で頷いております。
「ただ、それがどういう魔術か、全く見当はつかないんだけどね。体に特に目立った変化があるようには感じられないし」
 男は困ったように笑みを一つ作ります。
「記憶があれば、それがどういった魔術かも、その魔術を解く方法も分かったんだろうけどね」
「エルイテ、残念そう」
 男の表情を見ましたノームが呟きまして、男はそれに同意いたしました。
「そうだね、今は少し、記憶がないことを残念に思っているよ」
 男の言葉に、シェイドがぱたぱたと手を動かします。いつものように、ノームが代わりに言葉へと変えます。
「エルイテ、記憶がないの、気にしてなさそうに見えた、って」
 それを受けまして、男は苦笑します。
「シェイドの思っているとおり、記憶がないことは気にしていなかったよ。その内戻るならそれで良いし、戻らなかったとしてもそれで構わないと思っていたからね。記憶があってもなくても、本は読めるからね」
 男は手に持った本の表紙を優しく撫でます。
「でも、今は少し記憶を取り戻したいかな。そうすれば、自分にかかっているかもしれない魔術のことが分かるからね」
 そして、何とはなしにエンブリオ達に向けていた視線を正面に向けましたところ、男は見覚えのある景色の中にいることに気づきました。
「どうやら、広庭に戻ってきてしまったようだね。確か、庭師のいた辺りだったかな」
 男の記憶が正しいと証明していますかのように、少し離れた場所には見覚えのある人影が2つございます。
「これは、向こうに気づかれる前に離れた方が良いかな?」
 以前ここに来た時は、庭師にあっという間に打ち負かされてしまいました。
 何も何度も打ち負かされる必要はないと考えました男は、踵を返そうとしました。
 しかし、それを行動に移すことは叶わないようでございます。
「……気づかれてしまったようだね。ここは戦うしかなさそうだね」
 男に気づいてこちらへかけてくる庭師を迎え撃つため、男は武器を構えました。


 数刻後、男は予想外の結果にいささか驚くこととなりました。
「……まさか勝てるとは思わなかったよ」
 目の前には、かつて男を打ちのめした庭師が倒れております。
「エルイテ、強くなってるんだよ……!」
 ノームの言葉に、シェイドも刻々と頷きます。
「きっとそうなんだろうね」
 そして男も、ノームの意見にやや控えめに同意いたします。
「さて、せっかくだから、庭師が起きてしまう前に、先に進んでしまおうか」
 かつては進めなかった広庭の先へと、男たちは歩を進めました。

  ≪第十三章≫

「ねぇ、エルイテ」
「ん? どうしたんだい?」
 男が食事を取り一息ついていましたところ、不意にノームに呼びかけられました。
「エルイテのいた軍って、どんなところなの?」
 ノームの隣で、シェイドも興味深そうに男を見上げています。
 本で読んだことしか話せないけれど、と前置きをしますと、男は自分が所属していたと思われます軍の説明を始めました。
「私が所属していたのは、ミューグテゼと言う国の軍なんだ」
 男はかつて読んだ本の内容を思い出しまして、出来る限り簡潔にまとめます。
「他の国の軍よりも魔術に力を入れていたらしい。私が所属していたと思われる魔術師の部隊が一番規模が大きかったようだよ。他国の軍にも魔術師はいたようだけど、どこもミューグテゼほどの規模ではなかったようだね」
「国の軍ってことは、エルイテ、えっと、ミューグテゼ? って国の人なの?」
「恐らくね」
 ノームの問いに、男は控えめに頷きます。
「どんな国なの?」
 そうだね、と一言呟きまして、男は少しばかり考えます。そして、ローブの肩から下がっている布をつまみ上げ、その先で揺れている石を指し示しました。
「魔術の強化に使える特殊な石が多く採れる土地でね、それの影響もあって、魔術が発展した国、だそうだよ。軍が魔術に力を入れていたのも土地柄、と言うべきかな」
「へえ」
 エンブリオ達は感心したように頷きます。
「ただ、こういった石は他の国ではあまり採れなかったようでね、過去に何度も戦争を仕掛けられていたみたいなんだ。どの戦争でも、敵国を追い返していたようだけどね」
 その時、ふと何かを思い出したかのように、男は布から手を離しました。
「そういえば、あの廃墟もミューグテゼの図書館だった、ような……」
「そうなの?」
 男は目を閉じて、かつて廃墟にいた頃の記憶を辿ります。
「……うん、そうだった。セベウトワーデ国立図書館と、廃墟のあちこちに書かれていた。セベウトワーデは確か、国の北東にある学術都市だったかな」
 煤けたカウンターに、崩れ落ちそうな柱に、そしてたくさんの本に、ミューグテゼの都市の名前が書かれておりました。
「エルイテ、今まで気づいてなかったみたい」
 ノームの言葉に、男は困ったように笑います。
「その通りだよ。あの頃は、自分がどこにいるのかなんて全く気にしていなかったからね」
 それを受けまして、シェイドが人間で言いますと口の辺りに手をやります。笑っているように思える仕草を、ノームが代わりに言葉にしてくれます。
「エルイテは、本当に本が好きだね、って」
 男は、今度は困ったような雰囲気を取り除いた笑顔を見せます。
「ああ。私は本が読めればそれで良いからね」
 男は日はとっくに沈んで大部分が夜色に染まりました空を見上げまして、そして溜息を一つ零します。
「しかし、こちらに来てからは全く出来ていないから、少し悲しいね。どこかで本を読む機会を得られれば良いんだけど」
 これを読むわけにはいかないしね、と呟いて表題のない本の表紙をそっと撫でます。この本は完成するまでは開かないと決めていますから、今ここで読んでしまうわけには参りません。
「さて、明日のためにそろそろ寝ようか。明日はもっと長い距離を進みたいね」
「うん」
 エンブリオ達が頷くのを確認しますと、男は横になりました。

  ≪第十四章≫

 男はこの日も広庭を歩いておりました。
 もう何日もこの広庭を歩いておりますが、歩を進めるごとに色を変える様は常に目に楽しく、決して飽きることはございません。
 初めて広庭に来た頃と同じように辺りをゆったりと眺めていますと、進んでいる方向からは少しそれた場所にあります花壇の側に、何かが落ちていることに気がつきました。
「おや?」
 男は足を止めまして、しばしその何かを見つめます。
 やがてそれが何か分かりますと、男は目を輝かせてそちらへと歩を進めます。
 傍らのエンブリオ達は揃って首を傾げておりましたが、それに近づくにつれ納得が行ったように頷きました。
 花壇の側に落ちていたのは本でございました。
 表題から、おそらく旅行者向けの書籍でしょう。本自体もあまり大きくなく、また厚みもさほどありませんから、旅先へ持っていくのに丁度良いように思えます。
「誰かが落としてしまったのかな?」
 そっと本を拾い上げて、土埃を優しく払います。本はまだ新しいもののようで、特に傷みなどは見られません。
 男は辺りを見回しまして本の落とし主を探しますが、落とし主どころか人影さえ見つけることが出来ません。
 いささか困ったように息を吐いて本を見下ろしますと、関心はすぐに本へと移りました。
「……持ち主が戻ってくるまでは良いかな?」
 何せこのメルンテーゼに来てからはまったく本を読んでいませんでしたから、偶然にも見つけた本を男が読みたいと思うのは至極当然のことでしょう。
 男は花壇の縁に腰を下ろして、早速早速本を開きました。
 この本はどうやらこの一帯の紹介をしているようです。男とエンブリオ達が目指しています王城や、遠くに見えた星屑の山など見覚えのある場所が、絵と文章とで書かれています。
 もちろん、男の知らない場所も書かれております。
 例えば、先見の塔。高く美しい塔の中には大木が聳え立っているそうです。大木に沿うように螺旋階段が伸びているとのことですので、大木を囲うように塔が建てられたのでしょうか。
 先見の塔の先には、アクアパレスと呼ばれる場所があるそうです。壁も道も全て透明な、まるで空の中を歩いているような心地になるとのことです。
 また妖精の森という場所も書かれております。ここにはメルンテーゼでも珍しい植物の生息地として紹介されていますが、観光気分で行くと痛い目に遭うかもしれない、とも書かれています。
 男は次々とページをめくり本を読み進めます。男が本を読む速度はなかなかに速いもので、さほど厚みのない本はまもなく読み終えられました。
「ああ、面白かった」
 本をぱたんと閉じて、男は感想を述べます。
「この世界には本当に色んな場所があるんだね。機会があれば、一度行ってたいものだ」
 ただ、今は一揆のために王城を目指しているわけでありますから、本に書かれていた場所に行けるとしたら、一揆を成し遂げた後になるでしょうか。あるいは、王城に行く道すがらに1つや2つならば立ち寄れるやも知れません。
 本を読み終えた男は、一度空を見上げます。日はまだ高いところにありますので、今日はまだ先に進めそうです。
 男が立ち上がり、ローブに付いた埃を払いましたところで、ノームが男に声をかけました。
「エルイテ、その本、どうするの?」
「あっ……どうしようか。私のものではないから、勝手に持っていくわけにはもちろん行かないけど。かと言って、ここに置いておくのは気が引けるね」
 再び花壇の縁に置いてしまえば、雨が降った際に本が濡れてしまいます。
 男は辺りを見回しますと、すぐ近くにある木に目を留めました。あの木の下に置けば、完璧ではなくとも雨は凌げるでしょう。
「あの木の下に置いておこうか」
 そう言いますと男は木の方へと向かい、その幹に立てかけるようにそっと本を置きました。
「本が傷む前に、持ち主が取りに来てくれると良いんだけどね。本が痛んでしまうのは悲しいから」
 何よりも本を好む男ですから、その言葉には並々ならぬ思いが込められているように聞こえます。
「うん」
 おそらく男ほどの思い入れはないでしょうが、ノームとシェイドも頷きます。
「さて、先に進もうか」
 ひと時の楽しみを与えてくれた本に背を向け、男とエンブリオ達は王城を目指して歩き出しました。

  ≪第十五章≫

 空がもう大分赤く染まった頃のことです、男は木の1つを見上げておりました。そして、目を凝らして枝の先を見ます。
「……この木も駄目みたいだね。これも実をつけ終わった後のようだ」
 何をしているかと申しますと、本日の夕食を探しているのです。
 しかし不運なことに、木の実をつける木はあれど、そのどれもこれもが実をつけ終わった後のようで、夕食になりそうなものは見つけられませんでした。
 視線を木の枝から下ろしますと、こちらへ駆けてくるノームの姿が見えました。
「そっちはどうだった?」
 男が尋ねますと、ノームは力なく頭を横に振ります。
「何もなかった……」
「そうか。私の方も駄目だったよ。シェイドの方はどうだろうね」
 そう言いますと、男はシェイドが食べ物を探しに行った方を見ます。少しすると茂みの影からシェイドが出てきまして、ぴょんぴょんとその場で跳ねました。
「シェイド、木の実見つけたって」
「おや、それじゃあシェイドの所へ行こうか」
 男とノームがシェイドの方へ歩き出します。ほどなくシェイドの下に着くと、男がシェイドに声をかけました。
「食べ物、見つかったんだってね。ありがとう、シェイド」
 しかしシェイドは、どこか申し訳なさそうにしています。
 ノームとともに首を傾げていましたが、その理由はすぐに分かりました。
 シェイドが見つけた木に案内してもらいますと、確かにその木は木の実をつけていました。けれど、その数はかなり少ないものでした。
「これだけでも十分だよ。これで1日ぶりに食事が取れるね」
 男のこの言葉で、ようやくシェイドの雰囲気が明るくなりました。
 実は、今日はまったく食べるものが見つからず、朝と昼は何も食べていなかったのです。昨日の夜は食べることができましたが、今目の前にある木の実の量よりも少ないものでした。
 男は木の実を摘み取ると、その大半をエンブリオ達に渡しました。男の手には、吸う粒の木の実だけがあります。
「エルイテ、もっと食べないの?」
 それを見たノームが、当然のように男に尋ねます。シェイドも心配そうにして、自分に渡されました木のみのいくらかを男に返そうとします。
 しかし、男は笑顔でそれを制しました。
「大丈夫だよ。私はこれで十分だから」
 けれど、エンブリオ達は納得いたしません。
「人間、ごはん大事」
 じっと真剣な眼差しで、ノームは以前にも言った言葉を男に言います。
「以前もそう言われたね。私も食事は大事だと思うんだけど、まったく空腹を感じなくてね」
 これも前に言ったかな、と付け加えます。
 その言葉を受けてでしょうか、シェイドがふらふらと動いてその場に倒れました。調子が悪くて、と言うよりは、そういう演技のように見えます。
「お腹すいて、行き倒れた人間、たまに見るって」
 ノームが解説をしてくれます。
「行き倒れないように気をつけるよ」
 男は苦笑を交えて答えますと、腹を数度さすります。
「だけど、空腹を感じないのは本当なんだ。丸1日何も食べてないのに、なんて、普通ではありえないことだけど。もしかしたら特殊な体質なのかもしれないね」
「ごはん食べなくても、平気な体質?」
 ノームとシェイドが揃って首を傾げます。
「そう。まったくは無理だろうけど、あまり食べなくても大丈夫な体質なのかもしれない。過度の小食と言うべきかな」
 もしそうだとしたら、今日のように食べ物が見つからない時にも困らずに済みそうです。
「そういえば、最初もエルイテ、何日もごはん、食べてないみたいだった」
 ノームの言葉に合わせてシェイドもこくこくと頷きます。
 最初、と言うのはノームと出会ってからのことです。その後シェイドと出会って、魔力回復のためにシェイドに木の実を勧められるまで、確かに食事を取っていなかったかもしれません。
「でも、ごはん大事」
「ああ、明日は食べ物が見つかったら、きちんと食べるよ」
 念を押すように言うノームに、男は気持ち真面目な顔をして答えます。
 だから今日はこれで、と男が付け加えますと、エンブリオ達が自分達の木の実のいくらかを、男に半ば押し付けるように返しまして、結局この夜の男の食事は少しばかり増えることとなりました。

  ≪第十六章≫

「はは、私も情けないものだね……」
 体を重そうに引きずりながら、男が苦笑を一つ浮かべました。
 つい先ほどのことです。ドレイクと言う翼を持つ大きなエンブリオと戦うこととなったのですが、男はなす術なく倒れてしまったのです。
 そして今は、痛みを押して来た道を引き返しているところでございます。ドレイクは男を打ち負かしたことでいくらか満足したのでしょうか、早々にどこかへ飛んでいってしまいました。けれど、いつ気が変わって戻ってくるやも知れませんので、男は急いでドレイクと戦いました場所から離れることにしたのです。
 少し先を進むエンブリオ達が、心配そうに男を見上げています。と言いますのも、左腕と左足から血を流しているからです。それでも左腕は、ずっと右手で傷口を押さえていたおかげで血は止まっているようですが、いささか深い左足の傷は少しずつ男の服を血で汚していきます。また、歩くと傷が響くようで、左足を地面につける度に男は痛みで顔をゆがめます。
 エンブリオ達の心配を少しでも解消しようと、男はにこりと微笑んでみますが、それも一歩進んだだけで苦痛の表情に変わってしまいますので、あまり効果はないようです。
 しばらく歩きますと、やがて小さな森のような場所が目に入りました。あそこなら先ほどのドレイクや、他の敵意を向けてくるエンブリオから身を隠すことができましょうか。
 男はそこまで移動し、そして木の陰に入ったところでばたりと倒れてしまいました。
 意識がぼんやりとし始めてましたが、周りでエンブリオ達が慌しく騒いでいるのが分かりましたので、安心させようと言葉をかけます。
「だい、じょう――」
 しかし言葉を言い終わる前に、男は気を失ってしまいました。


 男が次に目を覚ましたのは翌朝のことでございます。
 ゆっくりと体を起こして辺りを見回しますと、少し離れた場所でエンブリオ達が眠っているのが見えました。
 昨日はひどく心配をかけてしまったことを申し訳なく思っていましたところで、不意に体に痛みが全くないことに気づきました。
 左腕と左足を確認しますと、まるで最初からなかったように傷がきれいに消えていました。触ってもみましたが、痛みなどは全くありません。どちらの傷も一晩で治るようなものではなかったのですが、まったく不思議なことです。
「どういうことだろう?」
 男が首を傾げていますと、視界の端で何かが動くのを捕らえました。どうやらエンブリオ達が目を覚ましたようです。
「エルイテ、大丈夫!?」
 男が目を覚ましていることに気づきますと、ノームもシェイドも慌てて男の下へ駆け寄ってまいりました。
 男は普段どおりの笑みをエンブリオ達に向けます。
「おはよう、ノーム、シェイド。ああ、傷は消えてしまったから、もう大丈夫だよ」
「えっ?」
 男の言葉に、エンブリオ達が目を丸くします。
 そして男が傷を負っていた場所を見まして、更に目を丸くしました。
「ほんとだ……でも、どうして?」
「それが、分からないんだよ」
 男は困ったように肩をすくめます。
 傷が治ったのは喜ばしいことですが、その理由が分からないのは、何とも腑に落ちない気持ちでございます。
「君達が治してくれた……というわけではなさそうだね」
 ふと、エンブリオ達が治してくれたのではと思いつきましたが、様子からしてそれはなさそうです。
 案の定、エンブリオ達は揃って首を横に振りました。
「ううん、ボクたち、そういうこと、できない」
「そうか。では、本当にどうしてだろうね?」
 今いる場所が特別な場所、と言うわけでもなさそうです。もしそうなら、ノームもシェイドもそれに気づいているでしょう。
 ではなぜ傷は治ってしまったのでしょう。男がその理由を考えていますと、シェイドが何かをひらめいたのでしょう、その場でぴょんぴょんと跳ねました。
「どうしたんだい、シェイド?」
 男が聞きますと、シェイドがパタパタと手を動かし、それをノームが言葉に変えてくれます。
「エルイテ、勝手に傷を治す魔術、かけたんじゃないかって」
「……ああ」
 男は納得が行ったように数度頷きました。
 治癒魔術は他の魔術と比べ魔力が多く必要となります。それが自動で発動するとなりますと、かなりの魔力が必要となってもおかしくはありません。
「シェイドの言う通りかもしれないね」
 そういう男の顔は、しかしどこか困惑しているように見えます。
「エルイテ、どうしたの?」
 不思議に思いましたノームが聞きます。
「ああ、いや……私にかけた魔術の検討がついたのは良かったんだけど、あいにく自動で治癒魔術が発動する魔術に、心当たりがなくてね。あの廃墟で読んだ本には、そういう魔術は書かれていなかったから」
「えっと、かけ方が分からないと、解き方も分からないんだっけ?」
「ああ、そうだよ」
 男にかけられた魔術の見当がつきましても、記憶を失っている男にはそれを解くことができません。
「結局記憶を取り戻さないと、どうしようもなさそうだね」
 男は残念そうに溜息を一つ落とします。
 そんな男を励ますためでしょうか、ノームが明るい声を上げます。
「でも、勝手に傷が治るの、便利そう」
「ああ、そうだね」
 ノームの声につられて、男の表情が明るくなります。
「いささか効率は悪いけれど、動けなくなるぐらいの大怪我をした時にはとても便利そうだ」
 傷一つない時でも常に魔力を消費しているのは欠点にも思えますが、いざと言う時には心強くも思えます。一揆に参加していて、いつ酷い怪我を負うか分からない状況ではなおさらです。
「今はこのままでも良いかもしれないね。解き方が分からないのは残念ではあるけれど」
「きっとそのうち、解き方分かるよ」
 ノームの言葉に男は頷きます。いずれ記憶を取り戻せれば、男にかかっている魔術の解き方もおのずと分かります。今は焦らず、記憶を戻ってくるのを待つのが良いかもしれません。
「さて、そろそろ出発しようか」
 男は左足の状態を確かめるように、ゆっくりと立ち上がります。やはり何の問題もないようです。
「昨日とは少し別の方向に進もうか。いくら便利な術がかかっていても、怪我をするのは避けたいからね」
「うん」
 ノームとシェイドが揃って頷きました。
 そうして、男とエンブリオ達は小さな森を出て、昨日とは別の進路の、王城を目指すには少し遠回りになる道を選んで歩き始めました。

  ≪第十七章≫

 その日は少し風の強い日でございましたので、男たちは風を凌ぐために大きな木の陰で休むことと致しました。
「エルイテ、今日は怪我しなくて、良かったね」
「そうだね」
 ノームの言葉に男はにこりと微笑んで頷きます。
 いくら自動的に治癒魔術が発動する魔術がかけられていましても、怪我などそもそもしない方が良いのですから。
「代わりに、鼻が曲がりそうになったけどね」
 今日戦うこととなりましたスカンクはさほど強くはありませんでしたが、とても酷い臭いを放っておりました。まだ鼻に臭いが纏わりついている気がするほどです。シェイドなどは、臭いに当てられたのでしょう、普段ほどの元気の良さがありません。
 幻の臭いを吹き飛ばすように、一際強い風が吹き抜けます。木の陰にいても威力が衰えない風が男の帽子を持ち去ろうとするので、慌てて手で押さえつけます。
 風が収まったた頃、不意に足に何かが当たる感触に気づきました。
 何かと確認してみますと、それは新聞のようでした。
 男は新聞を拾い上げて、何とはなしに紙面に目を落としました。
「何が書いてあるの?」
 ノームとシェイドが横から覗き込みます。
「一揆が始まったことについて書かれているようだね」
 新聞には、一揆の進捗状況について書かれています。新聞によれば、最前線に当たるところはまもなく王城へと到達しそうだと書かれています。ただし、新聞の日付がかなり前のものとなっていますので、最前線はとうに王城の中に入っているやも知れません。他にも、王の所業や一揆を行うに至った経緯も書かれています。
「私も初日から参加しているけれど、最前線の進行は随分と早いんだね」
 男が感想を漏らします。エンブリオ達はそれに頷きます。
 読み終えました新聞を折っていますと、不意に男の頭にある光景が浮かび上がってきました。
「ん……?」
 どうやら新聞を読んでいる最中のようです。しかし、メルンテーゼに来てから新聞を読んだのは今が初めてのことでありますし、またあの廃墟では読むことができる新聞は一つもありませんでした。
 となると、この光景は記憶を失う前のものでしょうか。
「……っ」
 それならばと、もっとよく思い出そうとしますが、頭痛のような、あるいはめまいのような感覚に襲われます。そして、光景もそこで途切れてしまいました。
 思わぬ不快感に、男は目を閉じ顔を手で覆います。持っていた新聞がまた風に飛ばされていってしまいましたが、それを気にする余裕もありません。
 男の様子を案じたのでしょう、ノームが声をかけてきました。
「エルイテ、どうしたの? 大丈夫?」
 男は不快感が収まるのを待ってから、返事を致しました。
「……ああ、大丈夫だよ」
 ふう、と息を吐いてから、男は今しがた起こったことをエンブリオ達に話しました。
「多分、少し記憶を取り戻しかけてたんだ」
「ほんと!?」
 ノームもシェイドも、男の言葉に驚きながらも喜んでいる様子です。
「と言っても、新聞を読んでいた光景が見えただけで、それもすぐに消えてしまったんだけどね」
 しかし男は対照的に、いささか残念そうに眉尻を下げます。
「残念だね、エルイテ…」
 それを聞いたエンブリオ達も揃って肩を落とします。
「ああ、そうだね。もっと色々思い出せたら良かったんだけどね」
 特に自分にかけられている魔術のことを、と付け加えます。
「でも、何かきっかけがあれば、記憶を取り戻せるかも知れないね」
 結局大したことは思い出せませんでしたが、それでも記憶が戻るかもしれない兆候を、男は前向きに捉えていました。
 ノームもシェイドも、こくこくと頷きます。
 その様子に男は笑みを浮かべます。そして、つい先ほど見えた光景を思い出します。
 ただ新聞を読んでいただけですが、その新聞に書かれていたことが少し気になったのです。
 1317年8月29日に発行の新聞。そこに書かれていたのは、主に隣国シャルトアムに関することでした。ミューグテゼとシャルトアムの関係が悪化している、シャルトアムが軍備の増強を始めた、ミューグテゼも軍備の増強を検討してる、などなど不穏な内容ばかりでした。
 この後は一体どうなったのでしょうか。何もなかったのか、それとも何かあったのか。
 あいにく男には記憶がありませんので、後のことは分かりません。ただ、胸の奥が少しざわつくような気がします。
「どうしたの、エルイテ?」
 ずっと物思いに耽っていた男に、ノームが声をかけます。
「少し考え事をしてただけだよ」
 思考の世界から引き戻されました男は、ノームににこりと笑顔を向けます。
 いずれ記憶が戻った時に考えれば良いと、男は一度新聞に書かれていたことを考えるのをやめました。
 胸のざわつきも、記憶を取り戻した暁には消え去ることを願うのみです。

  ≪第十八章≫

 今日も昨日のように風の強い日でございました。
 男は風に帽子が持っていかれないよう、手で押さえながら歩いています。また、伸び放題の髪が時々視界を遮るので、いささか歩きにくそうにも見えます。
「何か風を遮ってくれるものでもあれば良いんだけどね」
 男がぽつりと零します。
 しかし、この辺りには背の低い植物しかなく、高いものでも男より頭一つ分低いものしかありません。風除けにするにはどれも不十分でしょう。
「――っ」
 不意に、男が立ち止まりました。目に砂が入ってしまったようで、ぎゅっと目を閉じ、そして思わず帽子から手を離してしまいました。
 その隙を見逃さなかったとばかりに、帽子が風に飛ばされてしまいました。
「あっ」
 男は帽子を掴もうと手を伸ばしましたが、届くことはありませんでした。
 しばらく風に乗っていた帽子は、やがてやや離れたところにある、白い花をつけた茂みの向こう側に落ちました。
 また風に飛ばされてしまう前に拾おうと思った男よりも先に、ノームとシェイドが駆け出していました。ここはエンブリオ達に任せようと考えた男は、風で暴れる髪を押さえて、先ほどと変わらぬ速度で再び歩き出しました。
 やがて、男よりも先に茂みに着いたエンブリオ達が、なぜか揃って首を傾げました。
「あれ?」
 エンブリオ達は茂みを中心にきょろきょろしています。
「エルイテ、帽子がない」
 ノームの言葉に、今度は男が首を傾げます。
「おかしいね? 確かにその辺りに落ちたはずなのに」
 エンブリオ達は、別の茂みの陰や他の場所を探します。けれど、どこにも帽子は見当たらないようです。
 まもなく男も最初の茂みに着き、帽子探しに加わろうとしました。しかし、そうするまでもありませんでした。
 帽子は茂みから少し離れた花壇の脇で、はたはたと風に煽られていました。
 男は花壇の方へと歩き、拾い上げた帽子の埃を払います。そして、エンブリオ達に声を掛けました。
「帽子、見つかったよ」
 その言葉で、方々を探していたエンブリオ達が男の元へ戻ってきました。
「ここに落ちていたよ」
 戻ってきましたエンブリオ達に、男は指を差して帽子の落ちていた場所を示します。
 しかし、男が示した場所を見て、ノームもシェイドも再び首を傾げました。
「ボクたち、ここ、見たよ」
「……おや?」
 男が歩いてきた方向からでしたら、丁度茂みに隠れてしまいますが、茂みを覗き込んだエンブリオ達が見落とすような場所ではありません。また、一度別の場所に飛ばされて、その後風でここへと戻ってきた、と言うのもいささか考えにくいように思えます。
「……不思議だね。どういうことだろう?」
 男は帽子を被り直しながら、疑問を口にします。
「でも、帽子見つかって良かった」
「ああ、そうだね」
 ノームの言うとおり、帽子が戻ってきたのは良いことです。
 男は、帽子が一時見当たらなかったことについては、不思議なこととして一旦片付けることとしました。


 しばらく歩きますと、かすかに水の音が聞こえてきました。
 もしかしてと思い、音のするほうを目指しますと、星屑の小川が目に入りました。そして、大きなイカの姿もまた、目に飛び込んでまいりました。
 あのイカには以前酷い目に合わされましたので、見つかってしまう前に男はその場を離れようとしました。
 しかし、そうすることはできませんでした。
「ギュオオオオアアアアアァァァアアアアアァァァッ!!!」
 男がこの場を立ち去る前に、巨大なイカに見つかってしまいました。
「致し方ないね」
 男は覚悟を決めて、しっかりと棍棒を握り直しました。


 それからすぐのことです。
「ギュオオオオアアアアアァァァアアアアアァァァッ!!!」
 けたたましい叫び声を上げて、巨大なイカはその場に倒れました。
 この結果に、男はいくらか呆然としています。
「……勝てるものだね」
 以前は手を出すまもなく負けた相手です。今回も手酷くやられてしまうことを覚悟していましたが、結果はこちらの圧勝でした。男が呆然とするのも無理のないことです。
「これで先に進めるね、エルイテ」
「ああ、そうだね」
 ノームの明るい言葉に、男も明るく返します。
「しかし、今日はそれほど進めそうにはないね」
 そう言って男は空を見上げます。空に明るさは残っておりますが、日はとうに沈んでいます。
 男は辺りを見回して、少し先の方に木の実のなっている木を見つけました。
「今日はあのあたりで休もうか」
「うん」
 男とエンブリオ達は目的の木へと移動して、そこで休息を取りました。

  ≪第十九章≫

「結構書き進んだみたいだね」
 男は小川から少し離れた場所に座り、そして本を閉じたまま、どれほど出来上がっているかを確認しています。
 ページの3分の1ほどが淡い光を放っていませんので、この辺りまで進んだようです。
「こちらに来て1ヶ月と少しでこれだけ進んだのだから、単純に考えればあと2ヶ月ほど経てば完成するかな。楽しみだね」
 男は本を膝の上に置きまして、何も書かれていない表紙を大事そうに撫でます。
 そこに、ノームが男に声をかけます。
「ねえ、エルイテ」
「何かな?」
「ボクも、出来上がった本、読みたい」
 ノームの隣では、自分もとシェイドが男を見上げます。
 エンブリオ達からのお願いに、男はにこやかに快諾しました。
「ああ、もちろん構わないよ」
 男からの返答に、エンブリオ達はそれぞれ喜びます。
 ひとしきり喜びますと、不意にシェイドが身振り手振りで何かを訴えてきました。
「エルイテ、本ができた後は、どうするのかって」
 いつものように、ノームが代わりに言葉にしてくれます。
 シェイドからの質問に男は顎に手を当てて、そのまま数秒ほど考え込みました。
「本が出来上がった後のことは、特に考えてなかったな。……記憶があったら、素の世界に帰る、と言う選択肢もあったんだろうけどね」
 しかし、男はメルンテーゼに来た方法を覚えておりません。したがって、元の世界へ帰るというのは、今の時点では考えられません。
 男はまた考え込みまして、やがて一つ思いつきました。
「……この世界に本を読んで回る、というのも良いかもしれないね」
「エルイテ、やりそう」
 男が本を好きなことをよく知っているエンブリオ達は、男の答えに至極納得したように何度も頷きます。
「でも、まずはこの本を完成させないとね」
 そう言って男は、本の表紙をまた撫でます。
「それに、一揆の事もあるからね。本を読んで回るとしても、まずはいっきがおちついてからになるだろうね」
「一揆、終わってからの方が、本ゆっくり読める」
 ノームが付け加えました言葉に、すっかり性格を見抜かれていることに男は苦笑します。
「そうだね、どうせなら落ち着いて読みた――」
 全て言い終わる前に、男の言葉は途切れてしまいました。
 男の言葉が途切れてしまいましたのは、不意によぎった既視感のせいでございます。
 今のやり取りのようなことが過去にもあったような気がしたのですが、あいにく今の男は大して過去を持っておりません。きっとなくした記憶の中に今と似たやり取りの記憶があるのでしょうが、考えても考えてもただ胸がざわつくばかりで、思い出せる気配は一向にありません。
「エルイテ、どうしたの?」
 急に黙り込んでしまった男に、ノームとシェイドが揃って首を傾げています。
「ん? ……ああ、何でもないよ」
 ノームの声で我に返りました男は、普段と変わらない調子で答えました。また、この一瞬で胸のざわつきもすっかり消えてしまいました。
 新聞を読んだ時のことと言い今のことと言い、胸がざわつくことをいささか不思議に思います。
 ただ、この答えもなくしてしまった記憶の中にあるのでしょうから、と、男は深く考えることは致しませんでした。

  ≪第二十章≫

 この日も男は星屑の小川に沿って歩いておりましたが、やがて目の前に広がった景色に、いささか呆然と致しました。
「一体王城の周りはどうなっているんだろうね?」
 男の前に広がりますのは、見渡す限りの大草原でございました。
 男は王城を目指すため初めは広庭を、次に王城の方へと続いてる星屑の小川に沿って歩いておりました。その後は広庭と小川を行き来することとなりまして、そして今の大草原へと至りました。
 成り行き任せに道を選んでおります男ですが、さすがに王城へと近づいているのかと、幾許かの不安を抱きました。
「私たちはちゃんと王城に近づいているのかな?」
 男はそう呟きますと、王城のある方を見やりました。
 今までよりいくらか小さく見えているように思えますが、ひどく遠ざかっていると言うことはなさそうです。
 不意に、そよ風が大草原の方から吹いてまいりまして、草の香りが鼻をくすぐります。穏やかな日差しとあいまって、とても心地が良いです。
「しかし、随分心地の良い場所だね。ここなら日がな一日、本を読んでいられそうだよ」
「エルイテ、どこでも一日中、本読みそう」
「……そうかもしれないね」
 楽しげなノームの指摘に、男は一拍置いて頷きました。
 かつて廃墟で本を読み耽っていた男ですから、多少悪い環境の中でも、そこに本があれば何も気にせず読んでいることでしょう。
 男たちは大草原を進みました。
 草が風に揺れる音や草を踏みしめる音を男はしばらく楽しんでおりましたが、不意にあることがきになりました。
「……木が一本も見当たらないのは、雨が降った時に困りそうだね」
 見渡す限り緑のじゅうたんが広がるばかりで、背の低い木さえ一本も見当たりません。
 今まで川に落ちたことはあれども、雨に降られたことは幸いにしてございません。しかし、この先も雨が降らないとは限りません。
 自分が濡れてしまうことはあまり気にしておりませんが、本が濡れてしまうのは出来る限り避けたいところです。
「身を隠す場所がない、と言うのも気がかりだね。あまり強い魔物に遭わなければ良いけれど」
 男は少しでも強くなろうと努力をしていますが、なかなか報われる気配はございません。ですから、強い魔物をやり過ごすため、また敗走した時に身を隠す場所がほしいところです。
 男が思い悩んでおりますと、男の肩に乗っていますノームが自信たっぷりに胸を張りました。
「大丈夫! ボク、頑張って、魔物追い返す!」
 反対側の肩では、シェイドも同じように胸を張ります。
 小さなエンブリオ達の頼もしい姿に、男は思わず笑みを零します。
「よろしく頼むよ、ノーム、シェイド。私より君たちの方がずっと強いからね」
「うん…!」
 エンブリオ達は揃って頷きました。

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