日記ログ
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  ≪第二十一章≫

 男はこの日も大草原を歩いておりました。
 朝は心地の良い日差しが降り注いでいたのですが、昼を過ぎた頃から徐々に空が陰りを見せるようになりました。
 そして程なく、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてまいりました。
「おや」
 男が天を仰ぎました。
「雨が降ってくるとは、珍しいね」
 男がそのような感想を漏らすのも無理はありません。何せこちらに来てから、初めて降った雨でございますから。
 もっと強い雨でしたら男も困り果てていたところですが、このぐらいの雨でしたら何も問題ありません。むしろ、雨の匂いと草の匂いが混ざり合い、
 シェイドは相変わらず男の肩に乗っていますが、ノームは肩から降りて濡れた草の上を滑るように歩いています。
 男は、滑りやすくなっている草に足を取られないように気をつけながら歩きます。しかし、下り坂になっている所では、やはり時々足を取られてしまいます。その度に、シェイドは落ちてしまわないように、男の肩にしがみつきます。
「ごめん。大丈夫かい、シェイド」
 男が声をかけますと、シェイドはこくこくと頷きます。
 しばらくは小雨の状態が続いていたのですが、雨が止むことはなく、それどころか雨脚が強くなってまいりました。
 さすがにこのまま雨に打たれ続けるわけには行かないと思っていた男の前に、この草原では珍しいものが目に飛び込んできました。
「あの辺りに木が生えているようだね。あそこまで急ごうか」
 まばらに生えている木の、その一番近いものを指で差し示します。
「うん」
 先を歩いていたノームが小走りで木を目指します。男も、ノームに置いていかれないように、歩調を速めます。
 やがて木の下に辿り着いた男は、まずは濡れた手を丁寧に拭きまして、本の状態を確認いたしました。幸いなことに、雨に濡れた様子はございませんでした。
 次に、帽子とローブの状態を確認します。幸いどちらも酷く濡れている様子はなく、雨さえ止めば明日の朝には乾くでしょう。
「この辺りに木が生えていて助かったね」
 一息ついた男は、そう呟いて何気なく木を見上げました。すると、黄色く色づいた木の実がいくつも目に飛び込んでまいりました。
「……そういえば、食事のことを考えてなかったな」
 最後に食事を取ったのは昨日の朝でございます。つまり、男は丸一日名にも口にしていないこととなります。
「エルイテ、ごはんのこと、ちゃんと考えないと、ダメ」
「はは……そうだね」
 多少食べなくても問題のない体質のせいで、ついつい忘れがちになってしまいます。その度に、エンブリオ達に食事を取るように促されます。
 男はもう一度木を見上げます。木の実は沢山なっています。
「それじゃあ、ここの木の実を多めに採って、持って行こうか。この先も都合よく木の実のなっている木があるとは限らないからね」
「うん」
 エンブリオ達は揃って頷いて、それぞれ木によじ登って木の実を採り出しました。
 男も、手の届く所にある木の実を採り、持っていた袋に詰めていきます。
 やがて、袋一杯に木の実を詰め終えた男たちは、雨が止みそうにないので、今日はこのままここで休むことと致しました。

  ≪第二十二章≫

 昨日とは打って変わって、空は青く澄み渡っておりました。
 ただ、雨は遅くまで降り続いていたようで、地面が所々ぬかるんでいますので、足を取られないよう気をつけなくてはなりません。
 それでも時々足を取られながら進んでいますと、先の方に何かが落ちています。
「おや」
 前にもこのようなことがあったなと思いながら近づいてみますと、それは本でございました。
 男は本を拾い上げます。それと同時に、本の裏側の感触が、表紙のそれとは違うことに気づきます。裏返してみますと、ページがむき出しになっていました。この本はどうやら避けてしまったものの一部のようです。
 むき出しになっているページは、すっかり泥で汚れています。また、それ以外のページも、昨日の雨ですっかり濡れてしまっています。今本を開きましたら、きっとページを破ってしまうでしょう。
「こういう本を見ると、廃墟にいた頃を思い出してしまうね」
 そう言いながら、男はまず泥が広がらないようにそっと拭い、帽子を脱いで草の上に置き、開けそうなページを見つけて開き、そして帽子の上に本を置きました。今日は日差しがあるので、きっとほどなく乾くでしょう。
 やがて、まだ湿っている部分はあるものの、本があらかた乾きました。
 男は本をこれ以上傷めないように気をつけながら、最初のページを開きました。
 どうやらこれは、誰かの日記のようです。
 ところどころ字がにじんでしまっていますが、読む分には問題ありません。


 5月12日
 セル××リ××という世界から救援要×が来たらしい。
 現××府は救援を出すか×う×、協議している。
 ×ルフ×リ×フは豊か×世界だと聞×。政府×ことだ、見返りを期待××きっと救援部隊を組織する××う。

 5月17日
 ×ル×ォリーフに救援を出す××が決定さ×たとの×と。
 私も救援に行く×と×なった。
 正直×言×と、少し楽しみ×ある。この世界は××て豊かとは言えないから、×かな世界という××がどういうものか、少し興味があ×。

 5月23日
 セ×フ××ーフに到着×た。
 私×予想をは×かに超えた光景が広がっ××た。
 世界×こうも美×くなれ××か。
 ×の光景が失×れ×いように、私も気××入れて頑×ろうと思う。

 6月18日
 別働隊が1つ×何か気になる××を見つけた×しい。
 私×部隊で×、まだ世界崩壊を止め××立てとなるような××を見つけら×てい×い。
 別働隊に後×を取××いように、私×も頑張らなくては××ない。


 日記はここまででございます。
 この後、この『私』がどうなったのか、また救援を求めていた世界がどうなったのか、この日記からは窺い知ることが出来ませんでした。
「この世界はいったいどうなってしまったんだろうね」
 男が本を閉じて、日記に出てまいりました世界に思いを馳せていると、ノームが声が響きました。
「メルンテーゼにも、その世界から、助けてってお願い、来たよ」
「おや、そうなのかい?」
 男はいくらか目を丸くしました。
 しかしノームは、気落ちしたように言葉を続けます。
「でも、その世界が、どうなったか、わからない」
「そうか……」
 男も釣られるように、声のトーンを落としました。
 もしかしたらこの世界は助かったかもしれませんし、そうではないのかもしれません。
 ただ、いつまでもどこかの世界のことを考えてるわけにも行きませんので、男は立ち上がって先に進もうとしました。
 すると、ノームが再び声をかけてきました。
「エルイテ、それ、どうするの?」
 ノームは男が手に持ったままの日記を指します。
 男は考える仕草を見せます。
「そうだね……雨を避けられる場所があれば、前みたいにそこに置いていくことも考えたんだけど」
 一度辺りを見渡します。しかし、あいにく雨を凌げそうな場所はありません。
「だからと言って置いていくのは忍びないから、このまま持っていくことにするよ」
 どこかでこの日記の持ち主に会えれば良いんだけどね、と付け加えます。
 この日記がここに落ちているということは、日記の持ち主もここに来ていて、男と同じように王城を目指しているかもしれません。とすれば、いずれ持ち主に会うこともあるかもしれません。
 男はローブの下に日記をしまい、王城を目指して歩き始めました。

  ≪第二十三章≫

「無事じゃ済まないから……」
 そう呟いた貧乏神が倒れた瞬間、貧乏神から衝撃波のようなものが発せられました。
 突然の事ながらも、男は防御の姿勢をどうにか取ることが出来ました。
 幸い、衝撃波はあまり強いものではなく、けれど腕にも足にも、あちこちに切り傷が出来てしまいました。
「……っ」
 男は痛みに顔を少しばかりゆがめます。
 うっすらと血がにじむ程度で、どの傷も大したものではありませんでしたが、しかし切り傷というものは思いのほか痛むものです。
「エルイテ、大丈夫?」
 痛そうにしている男を、ノームとシェイドがそれぞれ心配そうに見上げています。
「ああ、大丈夫だよ。……とは言うものの、治るまでは少し我慢しないといけないね」
 この程度の怪我なら、翌朝にはすっかり治っていることでしょう。


 そして翌朝のことです。
 予想通り、切り傷はどれも綺麗に治っておりました。まるで最初から傷などなかったかのようです。
「きちんと治って良かったよ」
 男は傷のありましたところを、服の上からそっと撫でます。
 その瞬間に、男はあることに気づきました。
「……何故、服まで元に戻っているんだろう?」
 当然のことではありますが、傷が出来るということは、その上にある服も破れてしまいます。しかし実際は、撫でる手が感じているのは布の感触であって、肌ではありません。
 男はてっきり、自動治癒の魔術で治るのは傷だけだと思っていましたので、服まで直っていることを疑問に思いました。
 しかし思い返せば、今までも傷とともに服も治っておりました。何故今まで気づかなかったのでしょう。
 男が服まで直っていることと、それに今まで気づかなかったことについて首を傾げていますと、シェイドが手をぱたぱたと動かして、何かを主張します。
「エルイテが寝てる時、傷も服も光ってたって」
 シェイドは更に手を動かし、ノームがそれを言葉にします。
「最初に傷が治って、その後服が直ったって」
 シェイドは男よりも遅くまで起きていることがよくありますので、昨夜もきっとそうだったのでしょう。そして、その時に男の傷が直る様子を見たのでしょう。
「そうか。それじゃあ、服まで直してしまう魔術、なのかな……」
 男は一度頷きましたが、しかしどこか納得していないように見えます。
 その様子をエンブリオ達が不思議そうに見ています。
 まもなく、エンブリオ達の不思議そうな視線に気づいた男が、簡単に説明いたします。
「いや、何となく違和感があってね。上手く説明は出来ないけれど」
 シェイドの言葉に嘘はないでしょう。しかし、男は何かが違うように感じてしまうのです。何がどう違うのかは全く分かりませんが。
 違和感のことは一旦横に置いておくとしまして、男はまずは食事を取ることに致しました。
 今日もまた長い距離を歩くことになりそうですから、きちんと食事をとらなければまたエンブリオ達に怒られてしまいますから。

  ≪第二十四章≫

 男は、遠くに森が見える場所で傷だらけの体を休めております。
 先ほどまではその森の近くにいたのですが、イルヤナと名乗る青年に追い払われてしまったのです。
 何でもその森は妖精の住まう場所で、青年はその守り手だということです。
「あの森の端を抜けられたら、王城に早く辿り着けたんだろうけどね」
 男は森の向こう側に見える王城を見て呟きます。
 男の言うとおり、今いる場所からですと、妖精が住むという森の端を抜けていくのが一番の近道です。
 しかし、守り手に追い返されてしまいましたので、森を避けて王城を目指さなくてはなりません。
「妖精の住む森がどんな所か、興味もあったんだけどね。以前読んだ本に書かれているのは、あの森のことだよね?」
 男が傍らにいるエンブリオ達に問いかけますと、エンブリオ達は揃って頷きました。
「うん、あそこが、妖精の森」
 広庭で読みました本に、妖精の住む森のことが書かれていました。珍しい植物の生息地でもあるとのことでした。また、機会があれば一度行ってみたい、と男が興味を示した場所の一つでもあります。
「そうか、やはりあの森がそうなんだね」
 男は今一度森を見やります。どうやら、僅かながら未練があるようです。
 しかし、程なく首を横に数度振りますと、その未練もすっかり消え去ったように見えました。
「森に入れないのは残念だけど、でも、無理に押し通るのも考えものだからね」
 守り手がそっとしておいて欲しいというのですから、その通りにするのが最善でございましょう。
「明日からは少し進路を変えなくてはいけないね。あまり遠回りにならなければ良いけれど」
 ひどく時間がかかることはないと思われますが、もしそうだとしても、男はただひたすらに王城を目指して歩くだけでございます。
「……っ」
 不意に、守り手によってつけられた全身の傷が痛みます。男が痛みに顔をしかめていますと、ノームとシェイドが心配そうに男を見上げてきました。
「エルイテ、まずは、休まないと」
 エンブリオ達は揃って、痛みのない場所を選んで男の体を押してきました。早く横になって休め、と言うことでしょう。
「ああ、そうだね。今日はもう休ませてもらうよ」
 男は促されるまま、その場で横になります。明日もまた歩くためには、まずは体の傷を癒さなければなりません。幸い、男には便利な術がかかっているようですので、明日の朝にはすっかり良くなっていることでしょう。
 横になりました男は、ぼんやりと空を眺めます。まだ高いところにある太陽が目に入りまして、すぐには眠りにつけないかもしれない、と考えました。
 しかし、実際はそのようなことはなく、男は程なく眠りに着きました。

  ≪第二十五章≫

 森を避けて王城を目指すことになりましたが、思いのほか早く王城に着くことが出来ました。もしかすると、森を抜けるのと大して変わらない時間しかかからなかったやも知れません。
「これなら、森を抜けようとしなくても良かったかもしれないね」
 大きな扉を見上げながら、男は呟きました。
 やがて、男は扉を押し開けて中へと入りました。とても重そうに見えましたが、どうにか男一人の力で開けることが出来ました。
 中に入りますと、大廊下が目に飛び込んで参りました。
 大きな街の大通りほどありそうは幅に赤いじゅうたんがきちっと敷かれています。天井はとても高く、この中で木を育てても何の問題もなさそうです。また、壁には美しい彫刻が施されています。
 ただ、その彫刻のないように、男は少しばかり首を傾げました。
「他に題材はいくらでもありそうなのに、どうしてこういう彫刻になったのかな?」
 壁に施されました彫刻は、異形の者に跪く民が描かれていました。
 始めは一部分だけがこの彫刻なのだと思っていたのですが、どうやら違うようです。大廊下を進んでも、壁には異形の者に跪く民の彫刻が彫られていました。
 もしかすると、大廊下の壁の彫刻は、全てこの内容なのやも知れません。
「民に称えられる王の彫刻なんかが刻まれていても良さそうなのにね」
 男はどこか不思議そうに口を開きます。
「それとも、昔にこの彫刻のようなことがあったのかな?」
 男が廃墟で読んだ本の中に、洞窟に描かれた古い壁画の記述もありました。その壁画は大洪水に見舞われた時のことが描かれていました。
 ですので、男は大廊下の彫刻も、過去の起こった出来事の記録を兼ねているのではないかと考えました。
 しかし、エンブリオ達に心当たりはなさそうです。ノームもシェイドも、揃って首を横に振るばかりでした。
 そうか、と呟きますと、男は純粋に彫刻を含めた大廊下の鑑賞に、気持ちを切り替えたようでした。
 彫刻の内容さえ気にしなければ、大廊下はとても美しいものでした。さすがは王の住まう城、といった所でしょう。
 しばらくは壁や天井を見ながら先へと進んでいました男ですが、不意に視界が揺らぎました。
 それはすぐに収まりましたが、今度は幻覚が見えるようになりました。
 その幻覚は、この大廊下ほど広くない廊下を男を含めた複数人で歩いている光景でした。先頭を歩く人間は男たちを先導しているように見えます。また、先頭の人間以外は、今男が着ているのと同じローブと帽子を身に着けています。
 廊下の壁の所々には、案内用のプレートが掲げられています。研究室、という単語が見えますので、どこかの研究所でしょうか。
 やがて男たちは、魔術用大実験場、と書かれた部屋の前に到着いたしました。先頭の人間が扉を開けますと、中に塔のような物があるのが見えました。
 しかし、それが何かが分かる前に、頭痛とともに再び視界が揺らぎ、男は思わず膝を折ってしまいました。
「エルイテ、大丈夫?」
 エンブリオ達が心配そうに男の様子を窺います。
「……ああ、大丈夫だよ」
 男は少しばかり間を置いて、普段どおりの笑顔で答えました。
 そして、男が今見たものをエンブリオ達に説明しました。
「――多分、軍の魔術研究所だと思うんだけどね。私と同じ格好をした人間が何人もいたから」
 かつての男は軍属になった後、今しがた見えた研究所で働いていたのかもしれません。
 ただ、どうにも実験場の扉から見えました、あの塔のような物が気にかかります。
「あの塔のような物は、何なんだろう」
「建物の中に、塔があるなんて、不思議」
「ああ、そうだね」
 ノームの言葉に男は頷きます。
 不思議以上に、どうにも嫌な感じがしてなりません。
 今考えたところで答えが出るわけではありませんので、男はそれ以上は気にしないように致しましたが、いつか答えが出る日は来るのでしょうか。

  ≪第二十六章≫

 男たちがこの大廊下を進み始めましたのは昨日のことでございますが、今日もまだ大廊下を歩いています。
「広庭も本当に広いと思ったけれど、この大廊下も相当だね。まさか一日歩いても、王様のいそうな場所へ続いている道も見つからないなんてね」
 時々大廊下から伸びる通路を見かけることはありますが、それが王の居場所に続いているようには見えませんでした。
「そのうち、王様のいる場所に辿り着けると良いんだけどね」
 そう言って男は大廊下の先を見やります。どれだけ目を凝らしても、大廊下の端が見える様子はありません。きっと、今日中に辿り着けるようなものではないのでしょう。
 どこまで続くか分からない大廊下を、文句一つ言わずに男が進んでいますと、ふいに大廊下に繋がる通路の一つに目が留まりました。
 丁度廊下を曲がってすぐの所に部屋があるようで、扉が少し開いておりました。その隙間から、中に本棚が置かれているのが見えたのです。
 男は、思わずその部屋の方へと進もうとしましたが、寸での所で踏みとどまりました。代わりに、大廊下の先へと進む足が止まってしまいました。
「どうしたの、エルイテ?」
 男に言葉をかけると共に、ノームが男の視線を追います。そして、すぐに納得したようでした。
「エルイテ、本読みに行っても良いよ」
「……良いのかい?」
 男が聞き返しますと、ノームがこくっと頷きます。隣でシェイドも同じように頷いています。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 男はどこか軽い足取りで、本棚のある部屋へと入っていきました。
 あまり広くない部屋に、本棚が所狭しと並んでおります。この部屋はどうやら、小さな書庫になっているようです。
「色んな本があるね」
 男は目を輝かせながら、本棚の一つ一つを見ます。
 ここに置かれています本の大体は一般教養に関するものか武術に関するもののようでございます。恐らくは兵士のための部屋なのでしょう。
 男は本棚から一冊、一般教養に関する分厚い本を手に取り、早速読み始めました。
 エンブリオ達も横から本を覗いていましたが、男の読み進める速さについていけないようでした。
 やがて、男は1時間とたたずに本を読み終えました。男は本を元の場所へ戻し、そして次の武術に関する本を手に取りました。
 その本も始めの本のように分厚いものでしたが、やはり1時間と経たずに読み終えました。
 男は本を元に戻し、次はエンブリオに関する本を読み始めました。この本は先の2冊よりは薄い本で、30分ほどで読み終わりました。
 3冊目の本が読み終わりましたところで、ノームが声をかけます。
「エルイテ、本読むの、速いね」
「そうかな?」
 男は少し考える仕草を見せましてから、また口を開きました。
「ずっと廃墟で本を読んでたから、それで読むのが速くなったのかもしれないね。あそこには沢山の本があったからね」
 元はおっきな図書館だったんだっけ、とノームが聞きますと、男はそうだよ、と肯定します。
「どれぐらい、本があったの?」
 ノームは何とはなしに男に尋ねます。
「確か、元々の蔵書数は25万冊、だったかな。焼けてしまったり、痛んでしまっていたりで、全てを読めたわけではないけどね」
「それでも、読めるの、全部読んだんだよね? ずっごく、時間がかかりそう」
「そうだね、一月や二月で読める量ではなかったからね」
 そう答えながら、男はどれほどの時間をかけたのか思い出そうとします。けれど、その時は時間のことなど気にしていなかったせいか、どれだけの時間がかかったか、思い出せそうにありません。
 不意に扉から部屋の外を見ますと、外はすっかり暗くなっていました。本を読んでいる間に日が落ちてしまったようです。
「今日はここで休むことにしようか」
 エンブリオ達から同意を得ますと、男は扉を閉めて、兵士に見つからないようにと念のため部屋の隅へと移動して、そこで今日は眠ることと致しました。

  ≪第二十七章≫

 男はこの日、不運にも雷に打たれることとなりました。
 と言いますのも、ピスハンドと言う翼を持つ蛇が雷雲を発生させまして、その雷雲から雷が落ちてきたのでございます。
 幾度かは避けることも出来ましたが、しかし全てを避けきることはできなかったと言うわけです。
 ピスバンドはノームが無事に追い払ってくれましたが、雷に打たれてしまった男はあちこちに火傷を負い、また左の脇腹から出血をいたしまして、すっかり満身創痍の状態です。
 止血のために脇腹を抑えますがあまり効果はないようで、生暖かい感触がだんだんと広がっていきます。
 男は傷だらけの体を引きずり、どうにか近くの彫像の陰に身を隠しました。今の状態で、また兵士や暴走したエンブリオに襲われてはひとたまりもありません。ただ、彫像の影では森に隠れるほどの効果を望めるとは思えませので、結局は何者もこの辺りを通らないことを祈るしかありません。
 それでも、少しでも身を隠せそうな場所に辿り着いた安心感からでしょうか、男は彫像の陰に入った途端、その場に倒れこんでしまいました。石造りの床のひんやりとした温度が頬に当たって、少しばかり心地よく感じます。
 また、うつぶせに倒れた男は、背中に本の重さを感じます。
(先ほどの雷で焦げていなければ――)
 そこまで考えたところで、男はぷつりと意識を失ってしまいました。


 翌朝、腹部の違和感で目を覚ましました。何か四角い物を下敷きにしているようです。
 体を起こして確認してみますと、倒れる直前には確かに背中側にしまってあった2冊の本が、なぜか下敷きになっていました。
「何故下敷きになっているんだろう?」
 男は首をかしげながら、2冊の本を拾い上げます。
 そして、何とはなしに視線を横へ向けますと、どうもエンブリオ達の様子がおかしいようです。何かにうろたえているように見えます。
「どうかしたのかい?」
 気になりまして問いかけましたが、しかしすぐに返事は返ってきませんでした。答えを返すことも戸惑っているようです。
 男は急かすようなことはせずに、エンブリオ達が返答してくれるのを待ちます。
 やがて、ノームが遠慮がちに口を開きました。
「あ、あのね、エルイテ……」
「うん?」
 また少しの間、ノームは口をもごもごとさせていましたが、意を決したように続きの言葉を口にしました。
「エルイテ、寝てる間、体が消えてたの……!」
「……えっ?」
 男はノームが何を言っているのか、すぐには理解できませんでした。
「エルイテ、倒れてすぐ、体が消えたの。それから、光の球が、エルイテの倒れた場所に、ずっと浮いてたの。それで、ちょっと前に光の球が消えて、またエルイテが現れたの」
 ノームがまくし立てるように、男が倒れてから目覚めるまでにあったことを説明します。
 しかし、理解が追いつかず、男はただ呆然としていました。
(体が、消えた……?)
 ようやく理解が追いつきましたが、今度はにわかに信じがたく思いました。
 もちろん、エンブリオ達が嘘をつくようなことがないのはよくよく分かっています。けれど、体が消えるなどと言うことが、果たして普通の人間に起こりうるのでしょうか。
 現に今も、2冊の本をしっかりと手に持っており、また石造りの床に確かに座っています。それがつい先ほどまでは消えていた、など言われましても、信じられなくとも仕方のないことでございます。
 思わず手に持った本を強く握り締めました男は、はたと目を覚ました時のことを思い出しました。
 背中側にしまってあった本が男の下敷きになっておりました。これはまさしく、ノームの言葉が正しいと証明しているのではないでしょうか。
「エルイテ、大丈夫……?」
 ずっと呆然としているように見えたのでしょう、ノームが心配そうに声をかけてきました。
「あ、ああ、大丈夫だよ」
 男はいつものように笑みと共に答えたつもりでしたが、顔がこわばってしまっていて、上手く笑えたように思えません。
「……私は、一体何者なんだろうね。普通の人間なら、体消えるようなことはないだろうし」
 ふと、男の口から言葉が零れ落ちました。その声は明らかに気落ちしています。
「ま……魔術、何かないの? そういうの」
 どこか慌てた風に、ノームが聞いてきます。しかし、男は静かに首を横に振りました。
「そういった魔術はなかったと思うよ。存在を気づかれにくくする魔術はあったけれど、でもそれは姿を消すわけではないからね」
「そっか……」
 ノームも、それから隣にいたシェイドも肩を落とします。
 それからは、男もエンブリオ達もすっかり黙り込んでしまいました。
 男が黙り込んでいるのは、自分が何者なのかを考えているためでしたが、しかし考えたところで分かるものではありません。
 ただ、何となくではありますが、自分にかけられた魔術が自動治癒の魔術ではない、ということを感じ取っていました。今までも違和感を覚えたことはありますが、今回のことで確信めいたものになりました。
 しかし、もし自分にかけられている魔術が別のものであるとしたとしても、自分が何者かは分からないままです。
 考えているうちに、先ほど特に考えなく呟いた『普通の人間なら、体が消えることはない』という言葉が頭をよぎりました。
 普通の人間に起こりえないと言うのならば、つまり普通の人間でなければ起こることではないのでしょうか。
 そんなことを思いついたところで、男はぱたりと考えるのをやめました。それ以上考えるのが怖くなってしまったのです。
 男は思考をかき消すように首を数度振り、そしてエンブリオ達に声をかけました。
「とりあえず、今は先に進もうか」
 とにかく今は、気を紛らわしたくて仕方がありませんでした。そのため、いつもどおりの行動に取ろうとしたのです。
「う、うん」
 躊躇いがちではありますが、エンブリオ達も頷きます。そして、いつものように男の肩に乗りました。
 肩に感じるわずかの重さに、男は少し安堵しました。
 2冊の本を背中側にしまって立ち上がり、出来る限り何も考えないようにしながら、いつものように足を動かし始めました。

  ≪第二十八章≫

 恐らく王城の番人でしたのでしょう、少女と大理石の青年から戦いを挑まれてしまいましたが、ノームの尽力で無事に追い払うことが出来ました。
 しかし、肝心の男はと言いますと、普段よりもいくらか動きが鈍かったようでございます。それでも倒れることなく済んだのは、特に少女の方があまり戦い慣れているようではなかったからでしょうか。
 男の動きが鈍ってしまったのは、やはり自分が何者であるか気がかりでしたからでしょう。男自身、あまり考えないようにしてはいるのですが、頭から完全に消し去ることはどうにも不可能のようです。
 戦い終わった後、またぼうっとしていたのでしょう、つんつんと足に何かが触れる感触でわらに返りました。見てみますと、シェイドと、それからノームが心配そうに男を見上げていました。
「大丈夫だよ、少し考え事をしていただけだから」
 男はエンブリオ達に笑いかけます。今朝の、男の体が消えたと聞いた直後に比べますと、まだうまく笑えたような気がいたします。
 そうして、またエンブリオ達を肩に乗せて前へ進み始めました。
 いつもでしたら楽しく話をしながら進むのですが、今日はどうにも男の口が重いようです。意図して口を噤んでいるわけではないのですが、考えても仕方のないことを考えてしまって、つい口数が少なくなってしまうのです。
 ほとんど話をせずに歩いていますと、やがて今までこの大廊下では見たことのなかった物が、目に飛び込んでまいりました。
「おや、あれは階段かな?」
 大廊下の右側に階段が見えます。どうやら2階へと続いているようです。
 男は顔を階段の向かい側へと向けます。そこにはやや大きな扉がありました。扉の上には『調理場』と書かれているようです。
 ここで城内で供される食事を作っているのでしょうが、調理場の中は今はとても静かです。既に全て作り終えているのか、あるいは作る人間がいないのか、調理場の外にいる男には分かりかねます。
 男は何度か階段と調理場を交互に見た後、エンブリオ達に一つ提案をしました。
「少し来た道を戻らないかい?」
「どうして?」
 ノームとシェイドが揃って首を傾げます。
「今は静かだけれど、調理場は本来人の出入りの激しい場所だからね。ここに留まっていてはいつ城の人間に見つかってしまうとも限らないから、少し戻って今日はそこで休もうと思うんだ」
 この辺りに窓はありませんが、男は眠気を感じ始めています。きっとそろそろ日が暮れる時間でしょう。
「うん、分かった」
 男の説明に納得しましたように、エンブリオ達は頷きました。
 男たちは大廊下を少し戻りまして、始めに見つけました彫像の影に腰を下ろしました。この彫像は太い柱のすぐ側に置かれていますので、昨日よりは身を隠すのに適していそうです。
 そして、まだ残っています木の実をそれぞれ食べます。しかし、男はあまり食が進まないようです。
 食と言えば、と男はこれまで何度もあったことを思い出します。
 男は何日も何も食べなくとも困ることはありませんでした。エンブリオ達に食事のことを言われるまで、すっかり忘れていることも多々ありました。
 男はてっきり、自分は空腹を感じにくい体質か何かだと思っていたのですが、それもまた違うのではないでしょうか。
 もしも、男が考えていたような体質であったとしても、そのような体質の人間は普通とは言い難いでしょう。
 このようなことを考えているうちに、食事の手がすっかり止まってしまいました。
 そこに、不意にノームの声が聞こえてまいりました。
「エルイテ」
「……ん、何だい?」
 ノームの呼びかけに、少し反応は遅れましたが男は応えます。
「これも食べて」
 ノームと、それからシェイドが、自分たちの木の実を男に差し出してきました。
 そして、男が何かを言う前に、ノームが口を開きました。
「ごはん、たくさん食べたら、元気出る」
「……」
 今日一日、男はぼんやりし通しでしたから、エンブリオ達はひどく心配したのでしょう。
 最初は申し出を辞退しようと考えましたが、ここはエンブリオ達の厚意を素直に受け取っておくのが良いでしょう。
「ありがとう、ノーム、シェイド。食べさせてもらうよ」
 男は笑顔で木の実を受け取ります。
 きっと普段どおりに笑えたのでしょう、ノームもシェイドもどこか安堵しているように見えます。
 これ以上エンブリオ達に心配をかけないよう、男は普段どおりに木の実をしっかりと食べました。
 食べながら、少々特殊な体質というだけで至って普通の人間なのだ、と自分に言い聞かせていました。
 果たしてそれが正しいのかどうか、いずれ分かる日が来るのでしょうか。

  ≪第二十九章≫

 男たちはこの日、今まで歩いていた大廊下から階段を上がり、2階廊下を進んでいました。
 2階廊下は大廊下とは大分様子が違います。廊下の広さ自体は大廊下より少し狭い程度でありますが壁に彫刻はなく、かわりに沢山の扉がずらりと並んでいます。ただ、どの扉の中からも、誰かがいる気配と言うのは感じません。どの部屋も空き部屋なのかもしれません。
「エルイテの世界、いっぱい魔法、あったんだね」
「ああ、日常生活を便利にするものから軍で使うものまで、たくさんあったようだね」
 歩きながら、ノームがいつもよりも饒舌に喋ります。
 昨日の今日ですので、きっと男の気を紛らわせるためにたくさん喋っているのでしょう。シェイドも同じようで、身振り手振りで会話に参加しています。
 話の内容は、主に男が元いた世界のことでございます。ミューグテゼがどういった国だっただとか、どんな食べ物が美味しかったのだとか、それから今話している魔術のことだとか、それはそれはたくさんの話をしております。
「それから、魔術を使う際は文様が付き物になっていたね。私の服や装飾には威力を強化するものばかり刻まれているけれど、消費する魔力を軽減する文様もあって、普段の生活には主にそちらの文様を刻んだ物が使われていたようだね」
 男の発現に気に鳴るところがあったのでしょうか、シェイドが首をかしげて、それから手を動かします。
「なんで、文様を刻むって言うの? 服なら、書いてるんじゃ、って」
 ノームが代わりに言葉にしてくれます。
「魔術に影響する文様が発見された当初は、金属に描かれた文様だけが効果があるとされていたんだ。その後、大事なのは文様だけで、材質は何でも良いと分かったんだけど、刻むと言う言い方は残ったんだ。最初は文字通り、金属に刻んでいたからね」
「名残、なんだね」
 ノームもシェイドも納得したようです。
「じゃあ、文様を刻むのは、どこでもいいってことは、体に直接でも良いの?」
「そうなるね」
 ノームの質問に笑顔で頷いていた男ですが、直後になぜか顔色が悪くなりだしました。
「エルイテ、大丈夫!?」
 エンブリオ達が心配そうに男の顔を覗き込みます。
「ああ……」
 男はそれだけ答えますが、体は小刻みに震えていて、とても大丈夫には見えません。
 シェイドが近くの扉を指します。休んだ方が良いと言っているのでしょう。
「そうだね……。これでは進めそうにないし、そうしようか……」
 男はシェイドが指した扉をそうっと開けます。あまり大きくない部屋で、中に人はいないようです。また、幸いなことにベッドがあります。休むには丁度良いでしょう。
 中に入って扉を閉めまして、ふらふらとベッドに近づき倒れこみました。
 けれど、倒れこんだのにベッドに触れる感覚がありませんで、体がふわりと浮くような感覚さえ覚えました。しかし、それが何なのか気に刷る余裕もなく、またエンブリオ達の心配そうな声に応えることもなく、男は意識を失いました。

  ≪第三十章≫

 意識を取り戻しますと、男はどこかの家のソファに座りまして、本を読んでおりました。
 意識を失うまでは王城の2階廊下にいたはずなのに、と思いましたところで、不意に違和感に気づきました。
 はっきりと見えているはずなのですが、なぜかぼんやりしているように感じてしまう、この感じは前にもあったような気がします。
 少しの間考えていますと、答えに辿り着くことが出来ました。これはきっと男の記憶の映像でございましょう。何がきっかけになったのは分かりませんが、また新しく記憶を思い出しているのでしょう。
 記憶の中の男は、淡々と本を読み進めます。
 そこに、玄関の扉を叩く音が響きました。男は本を閉じ、玄関へと向かいます。
 扉を開けますと、ミューグテゼ軍の軍人が立っておりました。
「エニアル・マトスはいるか」
「エニアル・マトスなら、私ですが」
 軍人に名前を呼ばれて、男は少し驚きながらも答えます。
 軍人は、ふむ、と一度頷きますと、持っていた書類を男に差し出しました。
「徴兵命令書だ。よく読んでおくように」
 軍人の態度から、拒否することなど出来ないと悟りました男は、渋々と書類を受け取りました。
 男が書類を受け取るのを確認しますと、軍人は踵を返して去っていきました。手にはまだ書類がありましたので、きっと他の家へと向かったのでしょう。
 男は扉を閉めて、渡された書類に目を通します。
 1331年9月28日に、セベウトワーデにある軍の魔術研究所へ来るようにと書かれていました。
 魔術研究所は、確かに男の住むセベウトワーデにあることになっていますが、街からは大分離れた場所にあります。徒歩ですといくらか時間がかかるような場所だったと記憶していますので、当日は早めに家を出た方が良いかもしれません。
 男は一度、目を書類から外してカレンダーへと向けます。今日は9月21日ですので、丁度1週間後に出向くことになります。
 書類は2枚ありまして、男はもう1枚の方に目を通します。こちらは魔術研究所の入所許可書のようです。入所を許可する旨と、男の簡単なプロフィールが書かれていました。
 男は書類をテーブルに置きまして、先ほどまで腰掛けていたソファに座り直します。
 この国が隣国シャルトアムと戦争を始めてから、もう10年経ちます。
 現在21歳の男もいつか徴兵されるのではないかと思っておりましたが、ついにその日が来てしまいました。
 出来ることでしたら、戦争などに出ず読書に明け暮れたい、と言うのが男の本音でございます。
 しかし、戦争が終わらなければそれもままなりません。何せ、戦争が始まる4年前から、実用性のない本の刊行が減り始め、今ではほとんど刊行されなくなってしまいました。その中には、男が好む小説も含まれております。
 元々拒否権など男にはありませんでしたが、それでもこの戦争に直接関わる覚悟を、心の中で致しました。


 それから1週間後、男は命令の通り、魔術研究所に来ていました。
 この記憶には覚えがあります。先導役の軍人を先頭に、魔術研究所の廊下を集団で歩いている、以前大廊下で思い出したものです。
 その時は、「魔術用大実験場」と書かれた部屋の扉が開かれ、塔のような物が見えましたところで途切れてしまいましたが、今回はそのようなことはございません。
 扉が開かれた実験場の中に男たちは入っていきます。皆それぞれ、塔のような物を不思議そうに見上げています。
 男も同じように見上げます。この実験場には天井が無いようで、塔の先端と共に青空と日の光が目に飛び込んでまいりました。
 男が眩しさに目を細めていますと、先導役の軍人がこの塔についての説明を始めました。
「これは我々が新たに開発した武器である」
 武器、と聞いて男は思わず首を傾げました。とても武器には見えませんので、そうするのも当然でしょう。
「我々はこれを大砲と呼んでいる。この大砲は、この場にいながら遠く離れた敵を攻撃することを可能にしたものである。試験運用では、シャルトアムとの国境付近の山まで攻撃が届くことを確認している」
 軍人の説明に、場がどよめきます。国境近くに住んでいた者もいるのでしょう、何度か爆発音のようなもの聞いたことがある、と言っている声も聞こえてまいります。
 シャルトアムとの国境付近の山はミューグテゼの西側にあり、ミューグテゼ北東部に位置するこのセベウトワーデからは大分離れています。
 魔術ならば離れた場所にいる敵を攻撃することも出来ますが、それでも目の届く範囲でなければなりません。本当に軍人の説明どおりにできるのでしたら、それはとてもすごいことです。
 軍人は男達の様子を気に留めることなく、説明を続けます。
「この大砲は魔力で動く。仕組みは魔術と大して変わらない」
 大砲を目を凝らして見ますと、文様が刻まれ、石が埋め込まれています。軍人の言葉どおり、魔術と同じように扱うことが窺い知れます。
「実戦投入に向けて、威力を高めるために文様や石を増やしてみたが、思った程の効果は得られなかった。しかし、大砲を運用する人員を増やせば、威力が格段に増えることが判明した。そこで君たちだ」
 軍人は一度言葉を区切りまして、男たちをゆっくりと見渡します。
「君たちにはこの大砲の運用に加わってもらう」
 大砲のコントロールは、この大砲の開発に関わっていました者たちでするとのことです。つまり、男たちには魔力を提供して欲しい、と言うことなのでしょう。
 この大砲は数日中に運用を開始するとの旨を伝えられ、この日は解散となりました。


 軍人が言っていました通り、4日後に最初の大砲の運用が始まりました。
 最初の標的は、国境を越えてきていましたシャルトアム軍でした。かなりの人数がいたそうなのですが、それを見事に全滅させたとのことです。
 その結果に、研究所の軍人たちは沸き立っていましたが、男にはいまいち実感が沸きません。なにせその目で直接確認したわけではないのですから。
 研究所に備え付けられた宿舎の一室で、男はそのようなことをぼんやり考えていました。
「なんか、上手く行ったって言われても実感ないよなぁ」
 そこに、男が考えていたことと同じようなことを、青年に話しかけられました。宿舎の部屋は基本的に二人部屋でして、この青年と男は同室で寝泊りすることになっております。
「ああ、そうだね」
 男は苦笑と共に同意します。
「だよなぁ。前線に出て戦えって言われるよりはマシだとは思うんだけどな」
 青年の言葉に、男も頷きます。
 前線に出るということは、いつ死ぬか分からない状況に置かれると言うことです。そういう点では、実感がなくとも安全な場所にいられることは喜ばしいとも言えるでしょう。
「そういや、まだ名乗ってなかったよな。俺、ヨルグって言うんだ。よろしくな」
 青年はそう言って男に右手を差し出してきます。
 男もそれに応えます。
「私はエニアル。これからよろしく頼むよ」
 男も同じように右手を差し出しまして、ヨルグと握手を交わしました。


 大砲の運用を始めてから1年と1ヶ月が経ちました。
 勝利の実感がないことにも大分慣れました。
 また、大砲を運用する人員も、最初の頃に比べてかなり増えました。それに合わせて、大砲が設置されている実験場にも物が増えました。魔力を束ねるには大砲だけでは足りなくなってしまいましたので、それを補助するための設備を大砲の周りに設置したのです。
 今日は大砲の運用日ですが、実験場は和やかな雰囲気です。今まで失敗らしい失敗が無いこと、また前線を見ることがありませんので、戦争に加わっている実感が薄いことが、この雰囲気を作り出しているのでしょう。
 運用開始時刻が迫ってきた頃、扉が開きまして数人が実験場に入ってまいりました。その中には、男よりも先に宿舎を出たはずのヨルグもおりました。
「おや、ヨルグ。私より先に部屋を出たのに……どこかに行ってたのかい?」
 男が素直に疑問を口にしますと、ヨルグはローブの袖を捲ります。素肌に直接文様が刻まれていました。
「なんか、魔力の強い人間の体に直接文様を刻んで、大砲の威力がどうなるか見たいんだってさ」
 大砲の運用人員の中でも、ヨルグは強い魔力を持っていました。上から数えた方が早いぐらいです。
「でも、大丈夫なのかい? 文様を体に直接刻んだ例なんて、今までなかったと思うけれど」
 前例のないことに、男はいくらか不安を覚えます。
 しかし、ヨルグは特に気にすることもなく笑っています。
「まあ、研究所の人が大丈夫だと思ったから、刻んだんじゃないか? きっと大丈夫だよ」
 そう言いますと、ヨルグは決められた位置へと歩いていきました。
 そして、程なく大砲の運用が開始されましたが、結果は男の不安を吹き飛ばすほど見事なものでした。たった数人に文様を刻んだだけで、今までとは桁違いの威力が出たのです。研究所の軍人は、最初に大砲を運用に成功した時のように喜んでいました。この調子ならば、シャルトアムの首都を直接狙うことも近々可能になると。
 しかし、それが現実のものになることは、遂にありませんでした。


 それから更に1ヶ月と半月ほど経った頃のことです。
 体に直接文様を刻んだ人員も徐々に増えてきました。この様子ですと、男も近々体に文様を刻むこととなりそうでございます。
 けれど、そうなる前に事故が起こってしまいました。
「な、何だこれは!」
 軍人の一人が叫びます。
 この日も大砲の運用をしていたのですが、いつもと様子が違いました。
 いつもですと、大砲から砲撃が放たれるのは一瞬で終わっていました。しかし、今日は砲撃が途切れることなく放たれ続けているのです。
 そしてすぐに、これは大砲の運用に関わる人員たちにも影響を及ぼしました。
「――っ!」
 男は息苦しさからその場に座り込みました。他の人員たちも、皆同じように座り込みます。
(くる、しい……)
 男は胸を押さえて精一杯息をしますが、息苦しさから解放されることはありません。
 ほとんどは声を出すことも出来ないようでしたが、それでも時々うめき声が聞こえてきます。その中に、暴発、と言う言葉が混じっていました。
 男はやたらと重く感じる頭を持ち上げまして、大砲を見上げます。
 変わらない威力で砲撃を放ち続ける大砲の様子は、暴発なのかもしれません。ただ、男にそれを判断することは出来ませんでした。思考する余裕さえなくなっていたのです。
 この状況がどれほど続いたでしょうか。とても長く感じられましたその時間は、唐突に終わりを迎えました。
 ずっと研究所の外に放たれていた砲撃の光が、男たちに降り注いだのです。
 男は今までにはない眩しさと、それから旨を貫かれる感触を最後に、意識を失いました。

  ≪第三十一章≫

 どれほどの時が経ったのでしょう、男は意識を取り戻しました。
 長い時間眠ってしまっていたのか、体がとても軽く感じられます。まるで宙に浮いているようです。
 意識を取り戻した男の目に最初に飛び込んできたのは、崩れ落ちた大砲でした。塔のように立派に聳え立っていた大砲ですが、今はただの瓦礫の山となっていまして、その面影さえありませんでした。
 大砲だった瓦礫以外にも、実験場の床には何かが転がっています。白っぽい塊があちこちに見られます。
 最初は何か分かりませんでした。しかし、目を凝らしてよくよく見てみますと、それが白骨であることが分かりました。元の姿は研究所の軍人や、大砲の運用に関わっていました人たちなのでしょう。
 男は悲しみのあまり、視線を足元に落とします。すると、足元にも胸に大きな穴の空いた白骨が転がっていました。
(ここにも……)
 そう思いましたところで、男は違和感を覚えました。
 男はもう一度視線を上げて、辺りを見回しました。程なく、今自分がいる場所は、気を失う時にいた場所と全く同じだということが分かりました。
 だといたしますと、足元に転がっているこの白骨は何なのでしょうか。
 男が首をひねっていますと、不意にあることに気がつきました。
 自分の足元を見た時、本来ならば見えるはずのローブの裾や、自分の足が見当たりません。
 男は自分の腕を動かして、顔の前に持ってきます。しかし、腕が顔の前にくることがないどころか、腕を動かした感覚さえありませんでした。
 嫌な予感がします。
 男は今の自分の姿を確認しようと、鏡になりそうな物を探しました。しかし、この実験場の中にそのような物はありませんでした。
 男は実験場の外も探します。その途中、この研究所自体にも相当の被害が出ていることを知ります。
 実験場の扉は無くなり、壁はところどころ崩れ落ちています。本来なら青空の見えないはずの場所から光が差し込みます。そして、廊下にも白骨が点々と存在していました。
 研究所の様子に暗い気持ちに見舞われていますと、やがて割れてない窓を見つけました。
 男は一度、自分の姿が窓に映らない位置で立ち止まります。
 自分が今一体どういう状態なのか、確かめるのに少し躊躇ったのです。下を見ました時に足やローブが見えず、また手を動かした感覚もなかったのですから、良い状態ではないことが容易に想像できます。
 ですが、確かめないわけにはいきません。男は意を決して、窓の前に立ちました。
「――!?」
 しかし、そこに男の姿は映りませんでした。
 かわりに、本来ならば男の顔がある辺りでしょうか、ふわりふわりと浮く光の球が映っておりました。
 もしや、これが今の自分の姿なのでしょうか。
 そう考えました男は、右に一歩動いてみました。そうしますと、光の球も右に動きました。
 次は左に一歩動いてみました。すると、やはり光の球も左に動きました。
(この光の球が、私……)
 そう確信せざるを得ませんでした。
 まったく変わり果ててしまいました自分の姿に、男は呆然としていました。人の形さえしていなかったのですから、それも無理ないことでしょう。
 しばらくの間窓の前で呆然としていた男ですが、不意にあることに気づきました。
(では、目覚めた時に足元にあったあの白骨は、あれも私なのでは)
 男はあの場所から動いていなかったようですし、そう考えるのが自然でしょう。
 そして、自分のいた場所にありました胸に穴の空いた白骨、意識を失う直前に感じた胸を貫かれる感触、そして今の自分の姿、それらを合わせて考えますと、出てくる結論は一つです。
(私は、死んでしまったのか……)
 おそらく、今の男は幽霊のようなものになっているのでしょう。幽霊の話は時々世間を騒がせたり、本に書かれたりとしていますが、まさか実在するとは――それも、自分がそうなってしまうとは思いもしませんでした。
 男はそのままぼんやりと窓を見ていました。
(街の方は、どうなっているんだろう)
 死んでしまう前に、研究所の軍人が、暴発、と言っておりました。
 本当に暴発をしていたのでしたら、もしかしたら街にも何か影響が出ているやも知れません。
 この窓は街のある方角にあります。しかし、研究所は街から大分離れた場所にありますので、この窓から街の様子を窺うことは叶いません。
 男は街の様子を見に行こうと思い立ちまして、ふわりふわりと移動を始めました。


 1時間ほどしまして、男は遠くに街が見える場所までやってきました。そして、そこから先に進めなくなりました。
 街の建物の多くが、無残なまでに崩れ落ちていました。セベウトワーデには大きな時計塔や立派な学校もあったのですが、それらは見る影もありません。図書館や、他のいくつかの建物は形をとどめているのが奇跡的に思えるような状況です。
 男は再び進みだし、街の中へと入ることにしました。
 街に入りますと、その惨状をよりまざまざと実感します。遠くからでは分かりませんでしたが、街のあちこちに白骨が転がっています。大通りなどは、足の踏み場に困るほどでした。
 大砲を稼動させたのは、確か昼過ぎだったでしょうか。町が一番にぎわっている時間と考えますと、大通りがこのような状況なのも納得が行きます。
 やがて、男は自分が生まれ育った家のありました場所まで来ました。
「……」
 当然のように、家は瓦礫と化していました。男の家族の安否など、考えるまでもないでしょう。男は、心がより重くなるのを感じます。
 大砲の暴発は、かなり長い時間に及んだと記憶しています。脱力感や息苦しさで、本来よりも長く感じた可能性はありますが、それを差し引いたとしても、やはり長い時間暴発していたように思います。
 そんな長時間の暴発が、果たして研究所とセベウトワーデを壊滅させるだけに留まるのでしょうか。もしかすると、国中に、いえそれ以外にも影響が及んでいるやも知れません。
 しかし、今の男にそれを確認するだけの気力はありません。
 自分の家の瓦礫の前にいた男は、また移動を始めました。
 特にどこを目指していたわけではないのですが、気がつきますと図書館の前にいました。
 そしてそのまま、図書館の中へと入って行きます。中の様子も、外からの印象とさして変わりませんでした。いくらか崩れ落ちた場所はあるものの、その大体は無事に見えます。無事なものの中には、大半の本も含まれます。
 男は、図書館に入って最初に目に付きました本を手に取ろうと致しました。けれど、幽霊になってしまいました男には、それは出来ませんでした。
(意識はあっても、本を読むことはもう出来ないのか……)
 その事実に、男は気持ちを更に暗いところへと落としていきます。そして、本当に死んでしまったのだと、嫌になるほど実感しています。
(何もかもが夢だったら良かったのに)
 シャルトアムとの戦争など起こらず、大砲は暴発などせず、ただ昔と同じように本を読んで過ごす毎日を送れたら、どれほど良かったでしょう。
 しかし、起こってしまったことを覆すことはできません。
 男は瓦礫の山の側で天を仰ぎます。ここは天井が崩れ落ちていまして、夕闇に覆われた空がよく見えます。
 夜が迫っていることを認識したからでしょうか、男は急に眠気を感じ始めました。
(こんな姿になっても、ねむくなってしまうとはね……)
 男に顔がありましたら、きっと苦笑をしていたでしょう。
 男は眠気に任せて、そのまま眠ることにしました。
(全て忘れてしまえたら、どれだけ良いだろうか)
 眠りに落ちる間際にそのようなことを考えたせいでしょうか、次に男が目を覚ました時には、本当に全てを忘れていました。
 そして、実体と本を読みたいという衝動だけを持つこととなりました。
 そこから先は、男の記憶にある通りでございます。

  ≪第三十二章≫

 男は腹部の違和感で目を覚ましました。
 この違和感には覚えがあります。つまり今度は記憶の中で目を覚ましたのではなく、現実で目を覚ましたようです。
 男がゆっくりと体を起こしますと、エンブリオ達が同時に男に抱きついてきました。
「エルイテ、大丈夫!?」
 ノームが憔悴さえ感じられる声で男に聞きます。
「ああ、大丈夫だよ、ノーム、シェイド」
 対する男は、いつものように穏やかな声で応えます。
「エルイテ、2日も、起きなくて……! ずっと、光の玉になってて……!」
「2日……それは、心配をかけてしまったね。でもこの通り、私は大丈夫だよ」
 安心させるように、男はノームとシェイドを優しく撫でます。
 しばらくしてエンブリオ達が落ち着いた頃、男が口を開きました。
「どうやら、私は記憶を取り戻せたようだよ」
「えっ、本当!?」
 男の言葉に、エンブリオ達は自分のことのように喜びます。
 男は出来るだけ簡潔に、自分の身に起こりましたことを話しました。
 徴兵されたこと、先に思い出していました塔のようなものの正体、そして、それが暴発して男が死んでしまったこと。
 話が終わる頃には、エンブリオ達はひどく沈んだ様子に見えました。そうならないように簡潔に話すよう努めたのですが、効果はあまりなかったようです。
「エルイテ、死んじゃってるの……?」
 ノームが躊躇いがちに聞いてきます。
「ああ」
 男は頷きます。
「辛くない……?」
 意識を取り戻した後の男の様子が今までと特に変わらないものでしたので、疑問と心配を覚えたのでしょう。
 しかし、男はやはりいつもと同じ調子で口を開きます。
「辛くないわけではないけれど、でも今はすっきりした気持ちの方が大きいかな。それに……」
「それに?」
「死んでしまっていても、本を読むことは出来るようになったからね。私にはそれで十分だよ」
 男の言葉に、エンブリオ達がくすくすと笑い出します。
「エルイテ、本当に本が好きだね」
「ああ。きっとそのために、私は幽霊になったんだよ」
 確証などありませんでしたが、それでも確信めいたものが男にはありました。
 死んだことよりも本を読めなくなってしまったことに衝撃を受けた男なのですから、本のために魂だけ蘇ったとしても、なんら不思議はありません。
「そういえば、エルイテ、どうして体あるの?」
 ノームとシェイドが不思議そうに、男にぺたぺたと触れてきます。光の球が本来の姿と聞かされれば、ならば何故実体を伴っているのか、不思議に思うのも道理でしょう。
「多分、このために魔力を使っているんだと思う」
「?」
 エンブリオ達が揃って首を傾げます。
「光の玉のままだと、本を読めないからね。だから、本を読むために、実体を得る魔術を自分にかけているんだと思うんだ。物を形作る魔術はあるから、多分それの応用だね」
 男の話に、エンブリオ達は納得したように頷きます。
「それから、他の魔術が使えないのもこのせいなんだと思う。ずっと実体を持ち続けるということは、ずっと魔力を消費し続けるからね。だから、他の魔術を使う余力がなかった、と言うことなんだと思うよ」
 本にかけた魔術以外が使えない理由は長らく謎でありましたが、ここに来てようやく納得が行きました。
「エルイテ、とってもエルイテらしいね」
 ノームがくすくすと笑います。隣でシェイドも肩を震わせています。
「ああ、そうだね」
 男は同意して、そして同じように笑います。
 少しの間、3人で笑っていたのですが、突然ノームが、あっ、声を上げました。
「どうかしたのかい?」
 不思議に思いました男が尋ねます。
「エルイテ、本当は、エニアルって、言うんだよね?」
「ああ」
「じゃあ、エニアルって、呼んだ方が良い?」
 男が名乗っています≪蒼玉望むエルイテの庭≫というのは、あくまで仮の名前です。本当の名前が分かったのですから、そちらで呼んだ方が良いのではないか、と考えるのは自然なことでしょう。
「どちらでも、呼びやすい方で呼んでくれたら構わないよ。エルイテと呼ばれることにも大分馴染んだからね」
 男からの返答に、ノームは少し考える素振りを見せます。
「じゃあ、エルイテで」
「ああ」
 笑顔で男の名前を呼びますノームに、男も笑顔を返します。
 男はベッドに落ちている2冊の本を拾い上げて、いつものようにローブの下へとしまいます。
 それから、ずっと身を預けていましたベッドから立ち上がりました。
「すっかりのんびりしてしまったけれど、今日は少しぐらい先に進んでおこうか」
 男は窓の外を見ます。影が短いので、恐らくまだ昼間のようです。これなら、男の言葉どおり少しは先に進めるでしょう。
「うん!」
 ノームと、それからシェイドは、いつものように男の肩に乗ります。
 そうして、扉をそうっと開けて廊下に何もいないことを確認した後、部屋を後にしました。

  ≪第三十三章≫

 この日も大分歩きましたが、結局上へと通じる階段を見つけることは出来ませんでした。このように広い城では、何かと不便なこともあるのではないだろうか、などと男は思わず考えてしまいます。
 仕方なく手近な空き部屋へと入りまして、休息を取ることと致しました。
 残り少なくなってまいりました木の実を食べ、エンブリオ達と談笑していたのですが、不意に黙り込みました。
 その様子を不思議に思ったノームが、男に声をかけます。
「どうしたの、エルイテ?」
「……ん? ああ、いや、実体化の魔術に使う魔力を、減らす術はないかと思ってね。魔力に余裕が出来れば、戦う時にも魔術が使えるようになるからね」
 男自身も戦ってはいますが、しかしエンブリオ達ほど活躍できているかと言えば、否と言うしかありません。
 けれど、魔術が使えるようになれば、今よりもずっと戦いが楽になるでしょう。
「ボクたち、今のままでも、大丈夫だよ!」
 ノームもシェイドも、いっぱい頑張るよ、と言わんばかりの顔を男へと向けます。
 エンブリオ達の気持ちをありがたく思い、それと同時に申し訳なくも思いました。
「ありがとう。でも、私ももう少しぐらい役に立ちたいからね」
 彼らはとても頼りになりますが、だからといって頼りきりになるのが良いとは思えません。
「とりあえず、出来ないか試してみるよ」
 そう言いますと、男は目を閉じて精神を集中させました。これまでのことから呪文の類は必要ないと判断しました男は、体の内部を魔力に戻すイメージを思い浮かべました。
 ほどなく、本がベッドに落ちる音が聞こえてきました。心なしか、体がふわふわと軽い気が致します。
 目を開けてエンブリオ達を見ますと、どちらも残念そうな顔をしていました。
「エルイテ、光の玉になってる……」
 男は、そうか、と返事をしようとしましたが、声が出ませんでした。どうやら、この状態では喋ることもままならないようです。
 このままでは意思疎通が困難だと悟った男は、再び目を閉じて、今度は体を作り出すイメージを思い浮かべました。
 わずかな間の後、男は元の姿を取り戻しました。
「どうやら、実体化の魔力を節約するのは無理のようだね……。加減が出来ずに、光の玉にまで戻ってしまうようだ」
「そっか……残念だね、エルイテ」
「ああ」
 男は本当に残念そうに笑います。
 良い案だと思ったのですが、なかなかままならないものです。
 そんな男の様子を見てか、ノームが努めて明るい声を上げます。
「ボクたち、頑張るよ!」
 ノームの隣で、シェイドもうんうんと頷いています。おそらく、落ち込んでいるように見えた男を励まそうとしてくれたのでしょう。
 前にもこんなやり取りがあった気がすると思いながら、男はエンブリオ達に笑顔を返しました。
「ありがとう、ノーム、シェイド。私も君たちに少しでも追いつけるよう、頑張るよ」

  ≪第三十四章≫

 男は扉の一つをそうっと開けて、中の様子を窺います。どうやら空き部屋のようです。
「……誰も使ってないようだね。今日はここで休もうか」
 部屋に入りますと、開けた時と同じように扉をそうっと閉めます。
 軽く部屋の中を見渡しますと、ある者が男の目に飛び込んでまいりました。
「おや、この部屋には本があるんだね」
 他の部屋でも小さな本棚はあったのですが、どの部屋の本棚も中は空のままでした。
 けれど、この部屋の本棚には1冊だけですが本を置いてありました。
 男は嬉々として本を手に取ります。厚みのない本は、どうやら軍の規則について書かれた物のようです。
 男は早速読み始めようとしましたが、その前にノームが声をかけてきました。
「エルイテ、先に、ごはん」
「ああ、そうだね」
 開きかけた本を閉じまして、一度本棚へと戻します。ノームの言うとおり、先に食事を済ませてしまうべきでしょう。


 食事を取り終えた男は、再び本を手に取り読み始めました。
 普通ならば、軍の規則など読んでも面白くはないのでしょうが、それでも男はとても楽しそうに読み進めます。
 しかし、なにぶん薄い本でしたので、すぐに読み終わってしまいました。
「ここの騎士団にも、ちゃんとした規則があったんだね。きちんと守られているのかどうか、は分からないけれど」
 男は、ぱたんと本を閉じながら感想を口にします。
 そもそも、この王城にて出会った騎士は数えるほどしかおりません。規則よりも騎士団そのものが機能しているのか、いささか疑問でございます。
「ねえ、エルイテ」
「ん?」
「前から、気になってたんだけど……前髪、本読むのに、邪魔じゃないの?」
 突然のノームからの問いかけに、男は伸び放題の自分の髪に意識を向けます。丁度前髪が一房、眉間を通るように伸びていまして、本を読む時や食事をする時などに邪魔になりそうに見えます。
「そう言われたら、特に気にしたことはなかったよ。視界を遮られることもないしね」
 耳にかけるなり切るなりしたくなりそうなものですが、男は本当に気にしていないように答えました。
 何気なく、男は前髪を摘みます。そのまま自分の髪を眺めていたかと思うと、不意に呟きました。
「……切ってしまおうか。長くないと困る、ということはないし」
「伸ばしてるわけじゃ、ないの?」
 ノームが尋ねますと、男は頷きました。
「ああ。元々……死ぬ直前までは、髪は短く切り揃えていたんだ。だけど、死んで実体化してからは何故かこの長さでね。今までは気にしたことはなかったけれど」
 男は立ち上がりまして、本を元あった場所へと戻します。それから、何か刃物はないかと部屋の中を探して回ります。
「そう言えば、顔立ちも死ぬ前とは少し違っているような気がするよ。少しばかり大人びたような……」
 男の言葉に、シェイドがパタパタと手を動かします。それをいつものように、ノームが言葉に変えます。
「死んだって、思いたくなかったからじゃないか、って」
 男の動きが一瞬止まりました。けれど、刃物を探す作業に戻ります。
「そうかもしれないね。研究所や街の状態を見て、いくらか時間が経っているはずだと考えて、それに見合った変化を加えたのが、今の私の姿なのかもしれないね」
 男は思わず苦笑を浮かべます。
 と、その時、引き出しの中からはさみを見つけました。
「おや、丁度良さそうな物が見つかって良かったよ」
 男ははさみを取り出しますと、早速ざくざくと髪を切り始めました。
 程なく髪を切り終えた男は、近くの窓で自分の姿を確認しました。
「こんなものかな」
 死ぬ前ほど整ってはいませんが、それでも十分さっぱりしたような気が致します。
「エルイテ、さっぱりした」
 男と同じ感想を抱いたようで、ノームは言葉で、シェイドは同意するように頷いて伝いえます。
「私もそう思うよ。……少し視界が明るくなったような気がするよ」
 気にしていなかっただけで、やはり前髪は視界に影響を与えていたのでしょう。辺りを見回しながら、男はどこか満足そうに頷きます。
「さて、そろそろ寝てしまおうか。明日もまたたくさん歩かなくてはいけないからね」
 男が促しますと、エンブリオ達はベッドに潜り込みました。
 それを追うように、男もベッドへと入りました。


 翌朝、男は顔に何か軽い物が乗っているような感覚を感じて、目を覚ましました。
 目を閉じたまま、手で顔に触れますと、さらりとした感触が伝わってきました。とても馴染みのある感触に、男は驚いて目を開きました。
 顔の上に乗っていたのは、昨日切ったはずの髪の毛でした。
 男はすっと起き上がりまして、今度は後頭部へと手をやります。そこにはやはり、切ったはずの髪が切る前の状態でありました。
「……髪を切るのも、怪我と同じような扱いなのかな」
 すっかり元通りになった髪を触って、男は苦笑を漏らします。どうやら、髪を切る前の状態で実体化が固定されているようです。
「まあ、別に良いか」
 本を読むのに支障ないしね、と小さく付け加えます。
 このあと、目を覚ましたエンブリオ達に驚かれることになりますが、短い説明ですぐに納得してくれました。

  ≪第三十五章≫

 相も変わらず2階廊下を進んでいた男ですが、少し先の方に廊下から延びる通路を見つけました。
「大分遠くまで続いているようだね」
 男は通路の前に立ちまして通路の先を見てみますが、終点と鳴る場所はここからでは見えませんでした。
「……どうしようか?」
 一度廊下の方を見てから、どちらへ進もうか悩みます。このまま廊下を進めば、いずれ王のいる場所に辿り着くことが出来るでしょう。しかし、この通路の先に何があるのかも、いささか気になるところであります。
 エンブリオ達を見ますが、揃ってどちらに進んでも良い、と言う視線を向けてきます。
 男は再び思案します。やがて、どちらへ進むか決まったようで、行き先を指で示しました。
「それじゃあ、こっちに進もうか。どこへ続いているのか、少し気になるからね」
 男が指差しましたのは、通路の方でした。
「分かった」
 ノームもシェイドも快く頷きました。
 エンブリオ達の同意も得られましたので、男は早速通路へと足を向けました。


 それから2時間ほど歩いたでしょうか、長い通路の先がようやく見えてまいりました。
 どうやらこの通路は、塔へと続いていたようです。
 通路の窓から、大きな蔓に巻かれた、高く美しい塔が見えます。
 塔の中に入りますと、立派な大木が目に飛び込んできました。
「塔の中に木があるとは、驚いた」
 いくらか目を見開いた男が大木を見上げます。螺旋階段を絡ませている立派な木は、どこまでも伸びているように見えます。
 ふと、男は昔読んだ本の内容を思い出しました。
「ああ、ここが先見の塔なんだね。まさか一揆を成し遂げる前に来れるとは思ってなかったよ」
 ゆっくりと階段を登りながら、男は感嘆の声を上げます。
「塔の頂上は一体どうなっているんだろうね」
 再び上へと目を向けますが、ここからではやはりどうなっているのかをうかがい知ることは出来ません。頂上の様子は、きっとそこまで行かなければ分からないでしょう。
 そこに、塔の上の方から突風が吹いてきました。
「あっ」
 そして、男が押さえるよりも早く、帽子が風に持っていかれてしまいました。
 階段から落ちないように気をつけながら、男は帽子の行く先を目で追いかけます。幸い、塔の下の方まで飛ばされるということはなく、丁度男たちが入ってきた入り口の辺りに落ちる――はずでした。
「おや?」
 床に着くか着かないかというところで、不意に帽子が消えてしまいました。
 男は、初め自分の見間違いか何かかと思いました。しかし、それはノームの言葉によって否定されます。
「帽子、消えちゃった……?」
「消えてしまった、のかな?」
 思わず首を傾げますと、エンブリオ達も釣られたように首を傾げます。
 とりあえず帽子が落ちたはずのところまで行こうと思い、男は階段を降り始めました。
 すると、階段を2段ほど下りたところで、消えた時と同じように、不意に帽子が姿を現しました。
「?」
 男とエンブリオ達は、再び首を傾げることとなりました。
「どうなっているんだろうね?」
 一度歩みを止め、帽子に起こっている現象について考え始めました。
「角度で見えなくなる……というわけではないようだね」
 男はしゃがんで見たり、つま先立ちをしてみたりしましたが、帽子が消えることはありませんでした。
 そして、何となく階段を1段上がってみました。すると、帽子は再び姿を消したのでございます。
 また1段降りてみますと、帽子は姿を現します。
 その様子に、男は一つの推論に辿り着きました。
「もしかして、実体化の魔術には有効範囲がある……のかな。有効範囲の限られている術は沢山あるから、これもそうなのかな」
 自分の推論に納得が行ったようで、男は再び階段を下りて、そして飛ばされた帽子を拾い上げました。
 そこで、シェイドが手をパタパタさせました。いつものようにノームが言葉へと変換します。
「そういえば、前にも、同じことあったね、って」
 エンブリオ達の言葉で、男は以前同じことがあったのを思い出しました。
 あの時もやはり風で帽子が飛ばされたのですが、エンブリオ達が一度調べた場所に、帽子が落ちていたことがあったのです。
「ああ……そうか、あの時も今回と同じ事が起こってたんだね」
 男はこくこくと頷きます。
 エンブリオ達が見落としそうにない場所に帽子がありましたので、当時は不思議に思ったものです。
「理由が分かってすっきりしたよ」
 男は満足そうに微笑んで、そして階段の先を見上げました。
「さて、そろそろ先に進もうか」
「帽子、飛ばされないようにね」
「ああ」
 男は帽子をしっかりと被り直しましてから、塔の頂上を目指して階段を登り始めました。

  ≪第三十六章≫

 その朝は、男は体から音が鳴りそうな感覚と共に目を覚ましました。
「やはり階段で眠るのはあまり寝心地が良くないね」
 先見の塔の階段は、1段1段は広いのですが、それでも下手に寝返りを打ってしまうと落ちしまいそうであります。ですので、男は出来る限り寝返りを打たないようにして眠ったのですが、その結果体があちこちが固まってしまいました。
 起き上がりました男は、体を動かしてほぐします。
 少しして体を大体ほぐし終わりました辺りで、ノームが目を覚ましました。
「おはよう、エルイテ。……どうしたの?」
「おはよう、ノーム。どうも体が凝り固まってしまってね。ほぐしていたところだよ」
 男の返答に、ノームが納得したと言わんばかりに頷きました。次いで、あたりをきょろきょろと見回しました。
「シェイドは?」
「おや、そういえば……」
 確かノームの隣で寝ていたはずなのですが、姿が見当たりません。
 男も辺りを見回し始めたその時、今いる段の1段下から、ひょこりとシェイドが顔を出しました。
「ああ、シェイドは落ちてしまったんだね」
 男は苦笑と共に呟きます。
 シェイドはあまり寝相の良い方ではなく、朝起きたら元いた場所から大分離れた所にいたこともありました。
 シェイドはこくこくと頷くと、ぴょんと階段を登りまして、それから朝の挨拶のお辞儀をしました。
「うん、おはよう、シェイド」
「おはよう」
 男とノームも挨拶を返しました。
 全員の目が完全に覚めましたところで、朝食を取ることにしたのですが、その時に一つ問題に気づきました。
「おや、もう木の実はこれで終わりのようだね」
 袋から木の実を取り出しますと、朝食の分にもやや足りないぐらいの量しか出てきませんでした。まだ中に残っていないかと思い袋の中を覗き込みますが、あいにく袋の中は完全に空となっていました。
「これは困ってしまったね」
 そう零しながら、男は木の実を3等分に分けていきます。
「私は食べなくても大丈夫だけれど……君達はどうにか確保したいところだね」
 木の実を分け終わりました男は、背中を預けています巨木を見上げます。食べられる実をつける木かもしれませんが、あいにく見える範囲には枝が見当たりません。例え木の実がなるとしても、これではどうしようもありません。
 それでも男は実体を持っているとは言え幽霊ですので、食事を取らなくても問題はありません。廃墟にいた頃はずっと、メルンテーゼに来てからも何度となく食事を取らなかったことがありますが、それで調子が悪くなることはありませんでした。
 けれど、男が平気だとしても、エンブリオ達もそうだということはないでしょう。
 もう一度、困ったね……と呟いた男に、しかしノームは明るく声をかけます。
「ボクたち、ごはん、食べなくても、平気」
「えっ、そうなのかい?」
 ノームからの思わぬ言葉に、男は目を丸くしました。
「うん。ボクたち、エルイテの魔力があれば、大丈夫」
 ノームの隣でシェイドもこくこくと頷いています。
 どうやら、契約している人間の、つまりは男の魔力さえあれば、エンブリオ達は食事を取らなくても問題がないということです。
「そうか、それなら良かった。当分食べ物を見つけられそうにないからね」
 男はほっと胸を撫で下ろします。が、すぐに何かを考え込み始めました。
 エンブリオ達が揃って首をかしげていると、男が口を開きました。
「……魔力の枯渇で何度か倒れていたけど、何も影響はなかったかい?」
 怪我を負って急激な眠気に見舞われたことが何度か、更に実体を保てなくなったことも幾度かあります。特に実体を保てなくなった時に、エンブリオ達に何か悪影響を与えていないかと不安になります。
 しかし、男の心配をよそに、ノームは何でもない様子で答えます。
「大丈夫だったよ。ボクたち、そんなに魔力、いらない」
 曰く、確かに契約者からの魔力が動力源であるのですが、その量はごくわずかで済むそうです。ですので、男が実体を保てなくなるほど魔力を消費してしまったとしても、そのわずかに残った魔力だけで十分事足りる、とのことです。
「それを聞いて安心したよ」
 男は今度こそ、しっかりと胸を撫で下ろしました。
「さあ、残りはこれだけだけど、朝食にしようか」
「うんっ」
 エンブリオ達が木の実を食べ始めたのを確認してから、男も木の実を食べ始めました。
(食べなくても平気らしいとは言え、どこかで食べ物を見つけたいところだね)
 美味しそうに木の実を頬張るエンブリオ達を見て、そっと心の中で呟いて男は微笑みました。

  ≪第三十七章≫

 成り行きで修道服の女性と共にハーピィと戦ってほどなくのことです。
 女性と別れた後、ゆっくりと階段を登っていますと、不意に扉が目に飛び込んでまいりました。
「おや、何だろうね、あの扉」
 男が首を傾げますと、エンブリオ達もつられるように首を傾げます。
 階段はまだまだ上へと続いていますが、興味に駆られた男は扉の前で立ち止まりまして、そしてそっと扉を開けました。
 するとそこには、不思議ながらも美しい光景が広がっていました。
「これは、なかなか凄いね」
 道も壁も全面が透明な、空の中に伸びている道がありました。本来でしたら何もないと判断したかもしれません。しかし壁の両側面には、まるで行き先を示すように水がさらさらと流れています。その水のおかげで、確かに道があるのだと分かります。
「ああ……そうか、ここがアクアパレスか」
 以前読んだ本に書かれていた内容を、男は思い出しました。まるで空の中を歩いているな心地になる道があるのだと。そしてそれは、先見の塔から続いているのだと。
「この先、何が、あるのかな」
 シェイドが目を輝かせて呟きます。シェイドも興味津々のようです。
「では、行って確かめてみようか」
 男がそう言いますと、エンブリオ達はこくこくと頷きました。
 男はそろりと一歩踏み出します。道があることは分かっていますが、それでも透明な床に足を踏み出すのは慎重になってしまいます。
 床が確かにあることを確認できた男は、最初の一歩以降はいつもどおりのゆったりとした歩調で歩きます。最初は足元がおぼつかないような気分に見舞われていましたが、慣れてしまえば空を散歩しているようでとても心地が良いです。
「足元にさえ慣れてしまえば、なかなか落ち着ける場所だね」
 見晴らしの良い眺めが目を、水の流れる音が耳を楽しませます。
 そうしてしばらくの間、景色を楽しみながら歩いていますと、男の後ろから話し声が聞こえてきました。後ろを窺いますと、どうやら王城の人間ではなく、男と同じく一揆に参加しているらしい2人組の姿が見えました。
「王様倒されたって、マジかー」
「マジらしいな。これからどうする?」
「あー、どーすっかなー……」
 そんな話をしながら2人組は足早に歩いて、やがて男を追い越していきました。
 男は2人組の背を見送りますと、エンブリオ達に話しかけました。
「どうやら、一揆は無事成し遂げられたようだね」
「これで、元通りに、なるかな?」
「おそらくね」
 ノームの期待と不安が入り混じった瞳に、男は笑顔を向けます。
 そこに、シェイドがちょんちょんと男をつつきます。男が小さく首を傾げていますと、ノームが代弁してくれました。
「エルイテ、これからどうするのか、って」
「これから、か。そうだね……」
 男は顎に手を当てて少し思案します。
「まずは本の完成を目指そうかな。そのためにも、とりあえずはこの先に進んでみるつもりだよ」
 男は目線でアクアパレスの先を指します。
「そういえば、本、どこまで進んだの?」
 ノームが疑問を口にします。
「もう大分進んだと思うけれど……確認してみようか」
 ここ最近、本の進捗がいかほどかを確認していませんでしたので、男も正確なことは分かりません。
 男は早速本を取り出して進捗を確かめますと、丁度最後のページから薄ぼんやりとした光が消えるところでした。
 始めは真白かった本はこうして、男の旅の記録で埋め尽くされました。

  ≪表紙に書かれた後書≫

 朝の光で目を覚ましました男は、自分が昨日とはまったく別の、しかしとても見慣れた場所にいることに驚きました。
「ここは、私が最初に目覚めた廃墟……いや、図書館か。でも何故……」
 眠る前のことを思い出します。男は確かにメルンテーゼのアクアパレスに、ノームとシェイドと共にいたはずです。それなのに何故、男はもといた世界へと戻ってきてしまったのでしょう。
「本が完成したから、かな?」
 それ以外に思い当たる原因はありませんでした。どうにも、世界を渡る術は男の制御から少し外れているようです。
「ノームとシェイドには心配を……かけてしまっているだろうな」
 なにせ寝て起きたら男が消えているのですから、心優しいエンブリオ達が心配しないはずがありません。
 けれど男には、もうどうすることもできません。せいぜい、エンブリオ達が余り心配しないようにと願うばかりです。
 男は立ち上がりまして、近くの机へと向かいました。
 机と椅子の埃を払ってから椅子に腰掛けまして、閉まっていた本を取り出したところで、男はあることに気づきました。
「おや」
 男が取り出せたのは、元はこの図書館にあった真白い本だけでした。かつてメルンテーゼの大草原で、誰の物とも分からぬ日記を拾っていたのですが、それがなくなっているようでした。恐らくですが、あちらに置いてきてしまったのでしょう。
「また、誰かに拾ってもらえると良いんだけどね」
 アクアパレスには水が流れていますので、あの日記が再び濡れることなく、誰かに拾われることを祈ります。
 気を取り直しまして、男は本を開いて読みやすい高さまで持ち上げました。
 男が実体を持って目覚めたところから始まります本を読み進めながら、男はこれまでにあったことに思いを馳せます。
 最初は本さえ読めればそれで良かったこと。それこそ、名乗る名さえ覚えていないことを気にしないほどでした。
 ノームと出会った時は大層驚きました。なにせ動物が人の言葉を喋ったのですから。
 その後シェイドと出会い、様々な場所を巡りました。
 美しい庭に、星屑輝く川。どこまでも広がる大草原に、少し覗いただけですが妖精の住む森。王城の豪奢な大廊下に、大廊下と比べますと質素な2階。それから中心に大樹を抱える塔、そこから続く空の道。
 男の今いる世界にはないものも多くあって、それはそれは楽しかったものです。
「そういえば、ノームとシェイドにも本を読ませると約束していたのに、結局出来なかったな」
 本の内容は丁度、エンブリオ達と約束を交わした下りを記しています。もう一度メルンテーゼに渡ることができれば、約束を果たすことも叶うのですが、いささか男の制御から外れるあの術を、三度使うことが出来るような気が、男にはしないのです。
 男は本を読み進めます。
 やがて、男が記憶を取り戻す下りに差し掛かりました。
 あの時は愕然と致しましたし、それと同時に納得も致しました。
 今はと言うと、幾許か物悲しさもありますが、それ以上にこうして本が読めることに喜びを感じています。それも、この世に二つとない本を、男は今読んでいるのです。
 それから更に本を読み進めますと、男は最後のページの最後の段の、『始めは真白かった本はこうして、男の旅の記録で埋め尽くされました。』という文章を読み終えました。
 男の、かつて穴の開いてしまった胸には、今は充足感で満ち溢れています。
「嗚呼、面白かった」
 言葉と共に本を閉じますと、男は幻のように消えてしまいました。
 後に残るのは、トン、と音を立てて椅子に落ちました一冊の本だけでございました。
 かつて男が求めた本は二度と開かれることなく、廃墟に置かれました数多の本と同じように、ただただ朽ちていくのでしょう。


   ≪表題:ある幽霊の物語≫ 完

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